学生の頃、語学は嫌いではなかったけれど、書くこと、読むこと、話すことのうち、一番好きだったのは読むことでした。
言葉とは物事や考えを伝える道具だと思うのですが、どう伝えるのか人それぞれに得手不得手があるのでしょう。
読んでいるうちに書きたくなるし、読んでいるうちに話したくなるという自分の癖は、どの言語でも共通しているような気がします。
私は朝始業1時間前にゆくと、(それまでブロンプトンで走ってきたこともあって)ファミレスに入って朝食を食べます。
そこは英字新聞と日本の新聞が用意されていて、両方目を通すようにしています。
英字新聞なんて、大学生のころは「将来バイリンガルになりたい人」が、読めもしないのに無理して講読するアイテムだったと思いますが、最近は写真も多いし字も大きくなって(笑)読みやすくまりました。
順番はいつも英字新聞が先です。
日本語の新聞を先に読んでしまうと、同じ会社の英字新聞だからというのもあるのでしょう、英語で読むのが面倒くさくなるのです。
しかし、先に読んだからといって英字新聞が日本語の新聞同様にスラスラ読めるわけではありません。
そんな語学力もないし、今の環境は昔よりは多少改善されているとはいえ、英語ばかりに触れる環境ではありません。
新聞の内容はNEWSですから、それぞれのTOPICによって興味の度合いが違います。
時刻表オタクの私がトーマスクックの時刻表はスラスラ読めても、愛憎劇の「嵐が丘」は日本語だって理解できないのと同じです。
だから、まだ英語をおぼえ始めた子どもと同じように、見出しを読んで、興味ある記事だけ中身を読むようにしています。
つい最近、一面のロイヤル・ウェディングの写真の下に、“Koreeda’s ‘Shoplifters’wins Palme d’Or at Cannnes”という見出しを見つけ、ボーッとした頭で眺めていたら、“wins”を“wines”と取り違えてしまい「これえださんという生産者がカンヌあたりでなんちゃというワインの賞でも取ったんかい」と読んでしまいました。
それにしても「棚上げ」(笑)なんて面白いブランド名だなと思って本文をよくよくみたら、映画監督の是枝さんが「万引き家族」という作品で、パルムドールを受賞した記事なのでした。
なんだ、いつかロケ地を巡った「海街Diary」の是枝監督じゃないですか。
へえ、万引きって英語で“shoplifting”っていうんだ。
私の感覚だと、お店を下支えしているような映像を思い浮かべてしまうのですが、辞書をひくと“lift”には「盗む」「剽窃する」という動詞の意味もあったのでした。
もしかしたら、あちらの万引きは上からつまむのではなくて、下からごっそり持ち上げるイメージなのかもしれません。
こういうとき、スマホは便利です。
そのほかに時事で“football coach offers to quit”の見出しもありました。
いま世間で耳目を集めている問題が2段くらいにまとまっているので、読んでみます。
事実関係がわりと単純だから、英語でも読みやすいし、あとで読んだ日本語の新聞よりも問題点がはっきりしてくるような気がしました。
たとえば“The problem lies in a gap between instructions by coaches and how players took the instructions.”と、例の大学の発表文が英訳されているわけです。
『今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており』という部分が英語になると、曖昧な雰囲気が消えて、かなりストレートな言い回しに読めます。
すなわち、問題の本質は”Gap”(認識の差)であると。
英語は分別して物事を明確にする言葉に対して、日本語は婉曲にして状況を曖昧にする言葉なんて本で読みましたが、英文を読んでいると、指示自体も英語だったら勘違いを許さないくらいはっきりしたのかもしれないと感じました。
アメリカンフットボールなんだから、これからは戦術指令は全部英語でやるとか、言った言わないを避けるために音声データにして残しておくとか、そんな風にした方が良いのではないでしょうか。
現に国家間における条約などの外交的な取り決めをする際には、当該国言語の他に、英語とフランス語の条約文を作成して必ず手交すると聞きます。
なぜフランス語かといえば、仏語は英語以上に曖昧な解釈を許さない言語だからだそうです。
言った言わないとか、記録を破棄したの改竄したのという問題がおきるたびに、日本語の性質にも原因の一端があるのかなと思ってしまうのです。
日本語の文章って、受け取り手それぞれに解釈の幅があると思いますから。
それが日本語の魅力でもあるわけですが。
何が真実か、当人たちが一番よく分かっているのだから、関係のない人は静観した方が良いと私は思います。
責任の取り方も、その人個人や組織の問題なわけですし。
ただ、昨年の暮れにあのチームが甲子園ボウルを制したとき、誰が半年後の今の事態を予測しただろうと感じるのです。
勝って兜の緒を締めよとはよく言ったもので、勝利から慢心が出て、他者へのリスペクトを忘れてしまうということは、他人事ではありません。
そしてあの時盛んに持ち上げていた方々にも言いたいのです。
あなた方にとって、どんな人でも人としての価値は尊重するというのはどういうことなのかと。
インドのヴェーダーンタ哲学では人間の欲情を6つあげています。
それは色欲、怒り、嫌悪、欺き、高慢、羨望です。
最初の5つは良いとして、他人を羨望することもまた欲情なのだそうです。
高慢の裏返しで嫉妬の感情なのでしょう。
新聞を読んでいて思うのは、他人の問題より自分の問題に向き合うことの方が大切だということです。
劇場型社会の昨今、新聞を読んで、怒りや嫌悪、羨望という感情にアクセスしたくないので、これはきな臭いトピックだなと思ったら、大見出しだけにして、空いた時間を上記のように外国語を味わうとか、読書に用いた方が賢明な気がしてきました。