以下はすべて聖書の新共同訳からの引用です。
『また、彼らに言われた。「何をきいているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていいない人は持っているものまでも取り上げられる。」』
(マルコによる福音書 4章24節~25節)
『あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる』
(マタイによる福音書 7章2節)
『与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。』
(ルカによる福音書 6章38節)
「マルコによる福音書」では「秤のたとえ」と言われている部分です。
「マタイによる…」と「ルカによる…」は有名な山上の垂訓(山上の説教とも)の中の「人を裁くな」ではじまる節の中にあります。
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私は聖書のこの部分についていまひとつ合点がゆかないものを抱えてきました。
「人を裁くな」という記述は命令形としては分かるのですが、それに続く「あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ)(ルカでは「そうすれば、あなたがたも裁かれることはない」)も、誰からどんな風に裁かれることを免れるの?と不思議でならなかったのです。
世間には、自分のことを棚に上げて、他人を裁きまくっている人っているじゃないですか。
そういう人ってよく臆面もなくできるなと感心しますが、誰かから裁かれているようには見えないし、神仏から罰が与えられているようにも見えません。
(もしかしたら、人を裁かずにはいられない生き方自体が罰なのかもしれませんけれど)
本人を前にしては言えないのに、他の人のところへ行っては第三者の悪口を言いふらし続けて(それは「デマ飛ばし屋」とか「告げ口屋」というのかもしれません)いる人や、「絶対に許せない」が口ぐせのままでいる人も同類の気がします。
若い時は「自分は世の中をよくするために批判しているんだ」なんて正義感を持つのも悪くはないのでしょうが、人生の折り返し地点を過ぎてまだ「自己の鼻持ちならない高慢ちき」に気付かないとしたら、残念を通り越して痛々しいと思います。
会社の人の中に「わたしのモットーは『他人に優しく、自分に厳しく』です」と言いいながら誰彼の区別なく周囲を批判していた人がいましたが、私は「もう少し寡黙になった方が素敵だよ」と彼に対して苦笑しながら、他人事じゃないと実は内心寒いものを感じていました。
いまはニュースをみても、新聞を読んでも、悪口の応酬ばかりで嫌気がさします。
ほんと、そんなの他人の問題なんだから放っておけです。
「自分だけじゃない、こんなことは他の人だってやっている」なんて、子どもでもやらないような転嫁をする人や新聞もあって、暗澹とした気分になります。
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ところでご存知でしょうか?
教育現場におけるいじめっ子って、元いじめられっ子だった子たちが大半だそうです。
パワハラ、モラハラ、セクハラなど、ハラスメントをしている側はいざ批判を浴びると「自分はそんなことをしていたつもりはなかった」と言い訳をします。
しかし、彼らもまた元ハラスメントを受けてきた側だったとしたら、どうしてやられた人の気持ちを斟酌できないのでしょうか。
大学のクラブにも自分がいじめられて成長したから、後輩を同じようにかわいがってやるんだという人がいましたが、この人は言葉とは裏腹に進歩や成長を拒否しているのかと思いました。
もちろん、自分の悪口をあちこちで言われれば、私も心の狭い人間ですから腹は立ちます。
ただ、相手に同じ手法で意趣返ししたところで、自分もエゴむき出しでハラスメントする側の仲間入りを果たすだけという仕組みくらいは理解しているつもりです。
そういう人たちって同じような趣向の人間で固まってしまうから(つまり良識的な人は深い付き合いをしないし、いずれ離れて行ってしまうから)、お互いの悪口を陰で言い合って、お互いを裁き合って、互いに対立の構造でがんじがらめになって抜け出せないことを聖書は言っているのかなとは薄々思ってきました。
それでもなお、ハラスメントを受けている側が耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ばなければならない理由は見つからないままだったのです。
先日、聖書のこの部分がストンと心に落ちつく記述が別の本にありました。
『同じはかり
私たちは、他人が厳しくとがめられることを望むが、自分がとがめられることは望まない。
私たちは他人が十分に自由にふるまえないことを喜ぶが、自分の要求が拒否されることは望まない。
私たちは多くの規制によって他人が束縛されることを望むが、自分の自由が束縛されることは絶対に耐えられない。
それは、他人を自分と同じはかりで計ることが、いかにまれであるかを証明する。
私たちみながすでに完徳に達しているならば、神の愛のために、他人の何を耐え忍ぶことがあろうか。』
(De imitatione Christi「キリストにならう」バルバロ訳 ドン・ボスコ社)
この文中の最後にある「完徳」(かんとく)とはカトリックの教会用語でいう「目標としての完全さ」のことです。
目標ですから、完全な徳に達したかどうかは問題ではありません。
(人間が完全な徳に達しうるとは到底思えませんし)
それを目標に据え続けられるかどうかの方が問題だと思うのです。
だから、「諸徳の実践に目標を置き続けるならば、神の愛を前にして、他人の行いや振る舞いに悩んだり耐え忍んだりする必要はもはやないでしょう」と読み替えていいのではないでしょうか。
つまり、もともと人間の器など小さなもので、それを他人に向ける場合と自分に向ける場合では、かなり大きさが変わってしまう性格のものなのだということを言い、それを神に差し出さないままに他人や世間を裁いてばかりいると、苦しくてしょうがないでしょうと語りかけられているような気がするのです。
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念のため、同じ本の別訳を読み比べてみました。
『私たちは他人がきびしく(ただ)されることを求める。
しかも自分が匡されることはいやがるのである。
私たちは他人が幅の広い自由をもつことはこころよく思わないが、しかも自分の要求が拒まれることは嫌うのである。
私たちは他人が規則で拘束されるのを望むが、しかも自分が少しでもよけいに制御せられるのは忍ぼうとしない。
これから見ても私たちが隣人を自分自身と同じ尺度で測ることは、どんなに稀か、ということがはっきりわかる。
もし人がみな完全だったら、私たちは他人から加えられるどんな所作をも、神のために忍ぶことができよう』
(トマス・ア・ケンビス著「キリストにならいて」大沢章 呉茂一訳 岩波文庫)
岩波文庫の方が信仰書というよりやや学術書っぽいです。
声に出して読むと前者は諭されている気がしますが、後者は宣言文みたいなのです。
(他に新教出版社からも同書の翻訳書が出ています。そちらは未読です)
それに、最後の重要な一文がより強い反語形式になっていて、「完徳」が「完全」になっています。
お尻に「が。」をつけたら、そのあと括弧書きで(否、できまい)って国語で習うやつですね。
完全な人などどこにもいない(仮にいたとしたら人間ではないと…)、ましてや全員がなんてありえないと思うので、訳者には申し訳ないのですが、私はバルバロ神父訳の方がしっくりときます。
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何といっても、この本は15世紀に修道会内で書かれた本ですし、第二の福音書と呼ばれるほどに古典的な名著で通っています。
いま、夜にはアウグスティヌスの手ほどきで聖書を読み、バルバロ訳は枕頭に置いておいて、毎朝おきたらこちらを少しずつ読むようにしているのですが、時々こうして岩波文庫と比較しています。
一章一節が短くて、読み切りやすいのですが、かりに信仰のないままキリスト教を学問的に究めようとすると、こうした宗教的な表現で引っ掛かってしまうかもしれないなと思いました。
本の方は、全部読んでから所感を残しておきたかったならまた改めてご紹介しましょう。
しかし、ラテン語なんて読めないくせに、原書にあたってこの部分を確かめたくなってきました。
あ、その前に聖書の原典にあたるのが先かも(笑)