(橋の下が水路になっています)
前回まで佐屋街道の旅を8回にわたって続けてきましたが、ようやく旧東海道の旅に復帰です。
脇往還と東海道では道標や資料の面で質量が決定的に違います。
歩いていても、自転車で走っていても、旧東海道はやはり街道旅の王道だと思います。
迷うことはないし、碑文や案内板の量も多く、話題に事欠きませんから。
桑名宿は、広重の絵にもある通り宮宿からの七里の渡し船や、佐屋宿からの三里の渡し船が発着するだけでなく、木曽三川を利用した物流の中継点として、京をはじめとした畿内で生産された物資は近江商人によって一旦ここに集積され、尾張以東の東国へと送られ、逆に東日本の物資はここから近江を経て京へ送られていました。
そのせいか、宿場の規模は宮宿に次いで旧東海道で二番目に大きかったそうです。
京阪文化圏の東端であり、木曽三川を挟んでこちらが京阪式アクセント、あちらが東京式アクセントの境だそうです。
そういえば、午後三時ごろ弥富付近の路地で遊んでいた子どもの脇を通るとき、向こうから「コンニチハ」と声を掛けられて(おそらく小学校でそのように指導されているのでしょう)挨拶をかえしたとき、彼らの言葉は確かにいつもの「こんにちは」でしたが、桑名について食事をした後、勘定をしたら「おおきに」と言われてハッと相手の顔を見てしまったことがあります。
自分の感覚では新幹線に乗って新大阪に着き、雑踏の中で「いややわぁ」(「い」にアクセント)という女性の声を聴いて上方を感じるのですが、旧東海道の旅はそれよりもずっと敏感かつ繊細に言葉の境を感じることができるわけです。
こんなところが、旧東海道を自転車や歩きで辿る魅力でもあるのです。
うむ、自転車でフランスのアルザス地方にいってブドウ園巡り、或いはスイスのサリーヌ川を遡上し、フランス語圏とドイツ語圏の言語境界をブロンプトンでウロウロしてみたいなどと想像するのでした。
桑名宿に話を戻します。
この櫓は広重の絵にも登場する、桑名湊のシンボルです。
港に出入りする旅人は、船端からこの櫓を見上げたといいます。
横浜に置き換えれば一昔前ならマリンタワー、今ならランドマークタワーでしょう。
蟠龍とは、うずくまる龍のこと。
そして龍は、古くから中国において川を司る聖獣です。
関ケ原の戦いのあと、ここに入ったのは武勲の誉れ高い、徳川四天王のひとり、本多忠勝でした。
旧東海道は遠江から三河にかけて、彼の勇猛なエピソードがありましたよね。
武闘派として有名な彼は、桑名へ入ると町割りを行い、今日の桑名市の基礎を築いた人でもありました。
ただし、宮宿が徳川御三家の尾張藩の外港であったように、江戸期のほとんどの期間、物流の集積地である桑名を押さえていたのは、徳川親戚筋の松平家でした。
関ヶ原の戦いから16年後に本多家は播磨へ移封され、その後久松松平家、奥平松平家、再び久松松平家が返り咲いて(寛政の改革を行った松平定信の論功行賞との説があります)幕末を迎えます。
徳川幕府の倒壊にあたる戊辰戦争において、桑名藩兵は会津藩兵とともに、最後の函館戦争まで転戦して抵抗したように、親藩の中の親藩でありました。
蟠龍櫓を見学した後は、渡し場を挟んで向かいにある料理旅館の前(35.068639, 136.696463)の道を西へ入ってゆきましょう。
ちょうど川の土手が裏手にあたっていたため気付かなかったのですが、今は鉄筋になっている山月という名のその料理旅館がもとの脇本陣、西隣の舩津屋という料亭が、大塚本陣跡になります。
船津屋さんの前には歌行灯(うたあんどん 35.068474, 136.695908)句碑の説明がかかっています。
かはをそに 火をぬすまれて あけやすき
これは明治の末にここに泉鏡花が泊まったことで着想を得て書かれた小説「歌行灯」を昭和14年に東宝からの依頼で映画化した劇作家の久保田万太郎が詠んだ歌です。
小説の中にある裏手の川岸からカワウソがあがってきて悪戯をするという逸話から、灯火を盗られて夜が明けてしまった様子を読んだそうです。
動物が灯りを消すって伝説はよく聞きますが、今と違ってのんびりした時代を感じさせます。
再び渡し場跡まで戻って左折し、宮宿同様に船待ち然とした街並みをゆきます。
240mほど南に進むと、両側に広い歩道を備えた道路を渡ります(35.066097, 136.695608)。
横断歩道はありません。
ここで右折し、右手の歩道を西へ向かいます。
突き当りはJR関西本線と近鉄名古屋線の桑名駅ですが、その手前450mさき右手にあるのが曹洞宗のお寺、海蔵寺(35.067024, 136.691337)です。
ここに薩摩義士の墓所があります。
薩摩義士とは、江戸中期に木曽三川における宝暦治水工事の際に犠牲となった薩摩のお侍さんたちのことです。
薩摩藩は、当時財政が逼迫していたにもかかわらず、川底の土砂体積や新田開発によって頻発する木曽三川の水害対策(分流)工事を、幕府から強制されます。
薩摩藩は、当初工事を拒絶して戦争も辞さない覚悟(関ヶ原で西軍に与したことへの懲罰的意味合いが含まれていたといわれています)でしたが、財政担当家老(平田靱負=ひらたゆきえ1704-1755)が主戦派を抑え、彼自身が工事の総奉行(今の総監督)になって請け負います。
薩摩藩は1,000人弱もの家臣を桑名に送りました。
工期は1年3カ月でしたが、現在のお金で300億円もの費用を薩摩藩はつぎ込むことになります。
このしわ寄せで、工事財源として薩摩藩領、特に奄美大島の農民へサトウキビの強制栽培と収奪が行われ、農奴のような扱いを受けた彼らは苦しみました。
技術的にも治水が難しかった当時、堤が何度か決壊し、あるいは幕府側のハラスメントや地元住民とのいさかいなどの詰め腹を切らされる形で何人もの藩士が切腹(抗議ととられるとさらなる責任を負わされるので無届けで、正確な数字が分からず、一説によれば45名とも)しただけでなく、現場では赤痢が発生し157名が罹患、32名が病死しました。
結局、犠牲となった85名を顕彰したのがこの薩摩義士の碑です。
寺内にはうち24名の墓もあります。
幕府の工事現場への嫌がらせは、直接の工事妨害をはじめ、朝令暮改の指図、食料、道具などの販売制限など手段を選ばなかったきらいがあり、怨恨は幕末の戊辰戦争まで及んだといいます。
前に「樅の木は残った」が出てきたときも指摘しましたが、徳川政権って、こういう陰湿ないじめにまつわるエピソードが多いから、印象が悪いのです。
もういちど旧東海道へ戻り、南下します。
60mさきの右奥に、春日神社(35.065502, 136.694630)がみえます。
平安時代の延喜式にも名を連ねる古社で、八月第一土曜・日曜に行われる石取祭は、鉦や太鼓を深夜から叩くことで、日本一うるさい祭りとの異称があるそうです。
その先すぐ左側には歴史を語る公園(35.063884, 136.695827)が道に沿って細長く続きます。
公園の向こうはかつて船が入った桑名城のお堀になっています。
歴史を語る公園って何のことかと思ったら、ミニ富士ならぬミニ東海道というよりは、マイクロ東海道なのです。
細長い公園の北端をお江戸日本橋に見立て、南端を京の三条大橋として、旧東海道のミニチュアが160mに渡って再現されているものの、けっこう雑な感じです。
レゴランドに監修してもらって、レゴブロックで東海道を再現したら、観光客を集めるのに。
(あっという間に三条大橋に到着です)
歩いてきたときは、がんばってここまで来たのだから、もっと精巧に作って欲しかったと思いました。
よおし、それなら私が精密にスケールを計算してあげましょう。
こんなばかげたこと、誰もやらないでしょう(笑)
以前、旧東海道の旅の中間地点を導き出しました。
この時の計算によると、旧東海道の総延長は佐屋街道を含めて543.83㎞。
このマイクロ東海道は全長が160mですから、0.16/543.83になります。
0.16:543.83=1:xでおよそ3399分の1スケールモデルでした。
お金を使わずに日本橋と三条大橋の距離感をつかみたい人は、この公園を一日一往復毎日続けて4年半強の1700往復もすれば…ってそんなことする人いませんよね。
歴史を語る公園が切れたところで右折し、西へ向かいます。
右手に昭和の初めに銀行として建てられた石取会館(35.063743, 136.694260)、左手に萬古焼(ばんこやき)の展示が充実した桑名市博物館(35.063487, 136.693883)を見ながら県道163号線を京町交差点で渡り、次の路地を左折します。
ここが京町見附跡です。
角の手前右に赤い壁を巡らせた毘沙門堂(35.063846, 136.693465)があり、入口に「義士供養」と札が架かっています。
次回はここ京町見附跡から43番目の宿場、四日市宿へ向かいます。
(京町見附の毘沙門堂)
旧東海道ルート図(弥富駅入口~四日市駅入口)