ある日のスキー場での出来事です。
そこは最大斜度25度(上級者向けコースの中でもいちばん緩い程度)の上から斜面を覗くと、中間地点に小学生くらいの子どもが両方のスキーが外れた状態で倒れていました。
兄弟なのか、もう一人は下まで降りた場所でやはり転んでいます。
25度くらいの斜度だと、まだひっかかって止まります。
これが30度以上の圧雪されたバーン(コブが無い)だと、転んだらそのまま滑落して下まで止まりませんから。
ちょうど斜面のど真ん中で転んでいるので、この斜面をおりるのに技術がないと、子どもかスキーにぶつかってしまうだろうという位置でした。
それにしても、こういう場合、普通は親御さんがついていないといけないのですがどこにも見当たりません。
その斜面には子どもが2人倒れているだけです。
傍らにいて一緒に上からのぞいていた別の親子連れが、「あの子を助けてあげなきゃいけないね」と話しているのですが、そういう彼らもバリバリ滑れるような道具や格好ではなく、ここを降りるのはやめておいた方がいいよという雰囲気です。
自分みたいに子どものころからスキーやっていると、着ている服や道具とか、立ち姿である程度スキーの技術があるかないかが分かりますから。
でも、場面としては「誰か助けてやれよ」という状況で他に誰もいないのです。
仕方ない、自分の出番か。
これが街中だと声かけ事案とかいわれて警察に通報されてしまうおそれがありますが、自分も小学生スキーヤーのときにはずいぶん大人に助けてもらった記憶があるし、聖書にも道端で倒れている人を助けた「よきサマリア人の譬え」があることだし。
ということで、斜面中間で倒れている子のすぐ下でとまり、「大丈夫?痛いところない?」と声を掛けてからバラバラに散っているスキーを拾ってあげました。
すぐ下に止まるというのは、雪の斜面で助けるときの基本です。
それで目線が合いますし、落ちるのを怖がっているならすぐ下に人がいた方が安心しますから。
見たら小学校3年生くらいの男の子。
板もストックもレンタルだから、旅行者です。
地元のスキー慣れした子でもない限り、このコースは無理だと思います。
幸いけがはしていない様子です。
あっちの方が少し平だから(といっても初級者には急斜面です)といって斜面の端に誘導します。
これが二重事故の防止です。
いつ上から暴走滑降者がくるかわかりません。
揃えて置いたスキー板を指して、「下にある板から履いて」と指示して、彼が両方のスキーを履く間、自分の板で押さえ、肩を貸してあげました。
インストラクターをやっていたときは、よくこうしてスキーをはかせてあげました。
斜面の途中で外れたスキーを履くときは、谷側の板からというのが基本です。
山側の板から履いてしまうと、残ったもう一本の板を上から踏み込むことができなくなりますから。
彼がスキーを履くのを見届けた後、昔の癖が出て、彼の技術で斜面の下まで降りる方法を一緒に考えてあげようかと一瞬思ったのですが、やめておきました。
そこまでやったらおせっかいになってしまうし、自分で決めてこの斜面に入ったのだから、どうすれば脱出できるか考えるのは、彼の学びです。
中間地点からなら何とかなるだろうと考え、「気をつけてね」といってさっさと降りてしまったのですが、こちらの背中をみて「あんな風に自由に滑れるようになりたい」と思ってもらえればそれでよいのでしょう。
人助けの機会が与えられたことに感謝です。
それにしても親はどこにいたのでしょうか。
スキー場も夏の海水浴場同様に危険があるのだから、子どもから目を離してはまずいと思います。
あの急斜面では、体の軽い子どもでも場合によってはかなりのスピードが出るので、コースアウトして立木などに衝突したらただではすみません。
また、急斜面の真ん中で倒れていると、上からは見えにくいので、長くとどまればとどまるほど他のスキーヤーやスノーボーダーと衝突の危険が増します。
子どもは身が軽くて体が柔らかいから怪我しにくいとはいえ、やはり一緒にいてあげる方がよいと思います。
それが無理なら、安全にきちんと滑れるようになるまでスキー教室に入れるとか。
(上級者コースで安全に滑るには、文字通り上級者でなければならないわけで。)
(上級者コースで安全に滑るには、文字通り上級者でなければならないわけで。)
ところで、私はスキー場を去るときには必ず一礼しています。
水泳部だった時に、練習後にプールと先生に礼をしていたので、その名残です。
プールやスキー場など人工物に礼をするって、その行為の外面だけを切り取るとキリスト教における偶像崇拝にあたるのですが、べつに物に拝跪しているわけではありません。
その場の環境を保つために努力してくださっている人や、その場が自分に経験させてくれる物事に対して感謝の気持ちを表しているのです。
前に「それって信仰なの?」と訊いてきた外国人がいました。
難しいですね。
人に感謝の気持ちをあらわしているのなら礼儀や道徳になるでしょうし、その大元を創造してくださった方に感謝をささげるのなら信仰になります。
日本においては道徳と宗教の境が曖昧な気がします。
でも、ちゃんとした宗教とは必ず他者に対する礼節を伴っていると感じます。
いずれにせよ日々周囲に対して感謝し暮らせるという人は幸せだと思います。