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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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カトリック片瀬教会にブロンプトンをつれて

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その日の朝は、ブロンプトンをつれて朝5時に最寄り駅を発ちました。
横浜駅で東海道線に乗り換え、藤沢駅で下車して30分で朝食を済ませます。
本当は食べてはいけないのですが、その後では時間がないので、ここで急いで食べました。
小田急線に乗って片瀬江ノ島駅へ着いたのは6時43分です。
駅から2分ほどブロンプトンで走れば、カトリック片瀬教会に到着です。
自転車を駐車場わきに停めて、7時からのミサに出席すべくお御堂へ。
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知ってはいましたが、この教会は真横から見るとお寺か古い学校の木造講堂にしか見えません。
正面の突き出した屋根上に十字架が立っており、母屋の屋根下にも十字架と飾りが見えます。
あの飾りはたしか島原の乱の際に反乱側(天草四郎時貞)が掲げた旗印ではなかったでしょうか。
純日本家屋風のお御堂と相まって、「江戸時代に基督教が禁制にならなければ、こんなお堂を建てたかった」風になっております。
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教会の沿革によりますと、東京のフランス人神父さんが別荘を求めにこの地にやってきて有力者と面会したのを機に、そこの息子さんがカトリック系の学校に入ることで洗礼を受け、この地で自宅に聖堂を建ててミサを行うようになったのがはじまりだそうです。
江ノ島は江戸時代からの避暑地ですから、そういうエピソードなのでしょう。
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このお堂は昭和14年に建てられたそうですが、当時の横浜教区のこれまたフランス人大司教さまが、純和風建築を望まれたのだそうです。
中に入ると、やはり昔の木造校舎を思い出します。
中の様子は江ノ電のポスターになっているので参照してみてください。
https://i.pinimg.com/originals/cc/69/b9/cc69b90c39fedf6aa924c17bc9f659e1.jpg
あれ、膝をつく場所がない。
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カトリックの信徒になって、日曜日の朝はできるだけミサに行こうとしているわけで、旧東海道の旅などでも日曜日で「今日は雨で旅にならないな」と思ったときは、近くの教会の朝のミサにあずかっていました。
自分の通っている教会と、歌の節がちがったりするほかは、カトリックの主日のミサというのはほぼ全国共通で行われています。
また、自分のような旅人が、全く初めての教会のミサに紛れ込んでも、そういう事情なのだろうなと、その場の人々には薄々分かってもらえます。
もっともキリスト教の信者でない人でも、ミサに出席するのは何の問題もないと知っている自分としては、「気楽に行ける地上の天国」くらいの気持ちで参加しています。
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ただし、昔のミサはオールラテン語で、聖餐のパンに預かるのなら、起床してから教会にゆくまで、一滴の水ですら飲んではいけなかったのだと古くからの信徒さんが仰っていましたから、心理的な敷居が低くなったのはわりと最近のようです。
聖書はパウロの手紙のなかで、定められた時が迫っているので「喜ぶ人は喜ばない人のように」しなさい(コリント7・29~31)という部分を朗読していました。
『ちょっとパウロさん、あんた「いつも喜んでいなさい」(テサロニケの手紙Ⅰ5・16)って言っていたでしょうに』と思いながら神父さんのお説教を聴いたら、「わたしもこの表現はどうかと思う」と仰っていました。
やはり、笑顔と感謝の心は絶やしたくないものです。
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この日は、9時からお寺の行事のお手伝いだったので、片瀬教会の早朝ミサに出たあとに海をみて、それからブロンプトンでお寺に向かいました。
教会からお寺まで、ブロンプトンで20分くらいなので、8時半には到着です。
同日は初大師といって、真言宗のお寺ではその年初めてのお大師さまの縁日ということになるのですが、浪馬のお手伝いしているお寺では
「大般若経600巻転読護摩法会」という行事があって、お坊さまたちが15名以上も集まって、600巻のお経を題を唱えながらアコーデオンのようにパラパラと上から下へ開いては落とすのです。
はじめて見た時にはずいぶんと派手だなと思ったのですが、手を合わせている信者さんにとっては大切な法会なのだとも感じました。
私がイエスさまや教父アウグスティヌスに親しみを感じるように、お寺にも仏さまやお大師さまのもとにともにいたいという方々が大勢いらっしゃるわけです。
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法会においては、大般若経はさすがにわかりませんが、「南無大師遍照金剛」と般若心経を唱えるところは覚えている限りで唱和しました。
しかし、朝に「天のいと高きところには神に栄光」とか「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみ給え)」を歌って、午後に真言や般若心経とは、何ともはや。
もちろん、お寺では朝にミサに立ち寄ってきたことは言外しませんし、教会でもこれからお寺に行きますなんて(神父様以外には)言いません。
(心の中では「行きましょう、主の平和のうちに」ですけれども)あずかっている方としては、どちらも似ているしありがたいことには変わりなしと思っています。
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ところで、真言=マントラとは、口に出すことに価値のある言葉で、それを現代語に訳して意味を限定してもあまりありがたくないのだそうです。
般若心経の最後の方にでてくる、「ぎゃーてー ぎゃーてー はらぎゃーてー はらそーぎゃてー ぼーでぃそわかー(羯諦 羯諦 波羅羯諦
 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶)」の部分がまさにそれで、キリスト教の「アーメン」という言葉と同じようなものなのだそうです。
そういう意味では「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も真言としては違いがないと最近知ったわけですが。
最近聖書やキリスト教系の本を読みながらも、仏教、とくに空海や密教関係の本も併読しているので、疲れたけれども、信仰というものを考えるうえでは、とても興味深い一日なのでした。
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