ブログは読書もテーマだったのに、ここのところ本は読めども感想文の方をなまけておりました。
今回はおととしの暮れに横浜で撮影したクラレット色のブロンプトンの写真も混ぜて、先日ちょっとだけ出てきたプラトンの著作について感想を書いてみたいと思います。
少し前のこと、アウグスティヌスの『告白』を読みながら、なぜ彼が多神教のマニ教を捨てて一神教のキリスト教に回心したのかに思いをめぐらしておりました。
(夕方に外で遊ぶ子どもの歌「取って読め」を聴いて聖書を開き、そこで目に飛び込んだ言葉に心を打たれ、回心した逸話は有名です。)
本の解説の中に、ネオ・プラトニズム(新プラトン主義)、特にプロティノスが著した『エネアデス』を彼がよく読んでおり、それが信仰の下地をつくっていたとありました。
そこで『エネアデス』の抄訳を買ってきて読んでみたのです。
(プロティノスの著作について訳があること自体、日本人に生まれてよかったと思います)
註釈も含めて注意深く読んでゆくと、なかなか面白いのですが、編(章)によってはプラトンの著書の詳細な解説書になっていて参照件数が多く、プラトン自身が各著作で何を主題にしていたのかがわからねば、ちんぷんかんぷんなのでした。
ということで、プラトンなんて学生の頃読んだ「ソクラテスの弁明」、その後に教育学を学ぶ際に参考文献として読んだ「メノン」以来ですが、もう一度読んでみる羽目に陥りました。
これもチェーン・リーディングの一環ですが、「何事も大元までたどらんと、大事なことを見落とすもんだ」と映画の中で山本五十六が言った言葉が頭を離れなかったからかもしれません。
(それを言い出したらこれら西洋哲学の古典や新約聖書は、ギリシャ語の原典を読まねばならなくなってしまいますけれどもね)
で、最初に手を付けようと思ったのが『プロタゴラス』です。
わお、なんだか恐竜やらウルトラマンに出てくる怪獣のお名前みたいです。
『ゴルギアス』とか『パイドン』とか、プラトンの著作なんてギリシャ人哲学者のお名前ばかりだから、そんなことになるのでしょう。
頃は紀元前5世紀ということですから、日本なら邪馬台国以前の弥生時代中期ですし、北インドでお釈迦さまが生きたのと同時代のお話です。
ところで「プラトンのような」という意味の「プラトニック」という言葉を(特に性愛の分野で)使いたがる人は大勢おりますが、だからと言って彼の著作を大真面目に読んでみる人はあまりいないと思います。
彼の著作はだいたい戯曲のような対話形式を踏襲していて、プラトン自身から見たお師匠さんのソクラテスが描かれています。
そしてソクラテスはというと、現代人はアテネ・アカデミーの入口に頬杖をついている像から、額が広くてあごひげがもじゃもじゃのお爺ちゃんを想像します。
しかし、この『プロタゴラス』に限って言えば、時代設定がソクラテス36歳のころになっています。
すなわち、プラトンとソクラテスの年齢差は43歳ですから、著者自身が生まれていない若き日のソクラテスについて、伝聞か想像で著したということになりましょうか。
さて、表題の『プロタゴラス』とはやはり人のお名前です。
プロタゴラスは御年60歳の当時有名な老ソフィスト(哲学者)。
その彼に授業料を支払って教えを請いに行くという若者に、「私もついてゆく」と便乗して逗留先へと乗り込むまだ30代半ばのソクラテス。
プラトンはそういう設定でこの物語を書いています。
副題の「ソフィストたち」という意味は、そもそもソフィストとは何者なのか、彼らに若者が魂をゆだねるほどの価値があるのかというソクラテスの問いからきています。
そこで例によって「徳は人に教えられるものなのか」という議論を若きソクラテスははじめるのです。
正真正銘の老哲学者に、髪の毛がふさふさでお肌もつるつるのソクラテスが論戦を挑むという情景を想像してみましょう。
ただでさえ理屈っぽいソクラテスが、もっと尖がりながら大先輩に突っかかっていく様子が目に浮かびます。
当時のギリシャでいう徳(ἀρετή=アレテー)とは、いまの日本でいう「道徳」の「徳」とか「あの人は人徳がある」の「徳」よりももう少し広い意味で、そのものが元来持つ優れた性質のことを指すのだそうです。
能力のような面も「徳」であり、動物や物にも徳があったといいます。
たとえば大工道具の鑿であれば、丈夫で長持ちするようによく手入れされ、職人によって常に刃が研がれている状態はその鑿の徳であり、従順で飼い主に忠実な犬であれば、その犬には徳があるというような使い方をされたようです。
だから議論の最初に専門性、すなわち医術や芸術など技術的な才能に磨きをかければ、その人には徳が備わるのか?というような話が出てきます。
日本では道教や儒教の影響なのか、職業などその道を極めれば自然に徳も備わるというような考え方があります。
ある意味それが農業であれ、医業であれ、芸術であれ、技術的に専門性の高い仕事をしている人の姿は一種神々しいものがありますが、だからといってその人に徳があるといえるかどうかは分かりません。
仕事で緊張を強いられるために、いったん職場を離れると大きく羽目を外すという人もいらっしゃいますし、金や名誉のためなら技術をそっちのけで目の色変えて欲得づくで行動する人もたくさんおります。
だいたい、人にばれると窮地に陥るから(本当はやりたい)悪い行いを他人の目を意識して控えている、というのでは、我慢強い人ではあっても、抑制が効いて徳があるというのとは少し違うような気がします。
本の最後の方で、『快楽に負けるということは何を意味するかというと、結局それは最大の無知にほかならないことになるのである。
ここにいるプロタゴラスをはじめとしたソフィストたちは、自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ』とソクラテスが皮肉交じりに発言する場面があります。
字面だけを追うと快楽=善で快楽主義万歳を叫んでいるように見えるこの場面も、ソクラテスが本当に言いたいのは、快楽の大小、見返りの大きさなどにかかわらず、本当の善と呼ばれる「快さ」を見極める計量の技術こそが大事なのだという、むしろ節度のある快楽へのアプローチを主張している彼の冷静さが議論の向こうに透けて見えます。
「(悪いと)わかっちゃいるけれどもやめられない」という世人の言い訳は、ソクラテスにいわせれば、「本当のところ(悪いとは)わかっていない」ということになるみたいです。
こうして改めてソクラテスの言わんとするところを読んでいると、有名な彼の「無知の知」という考えは、これまで自分が思ってきたよりもずっと重いものなのではないかと感じました。
例えば、卑近な例ですけれども、薬物依存症の苦しみについて、自分がその病で死の淵に立ったこともないのに「麻薬中毒は死に至る病です」なんて(言わずもがななことですが)堂々と発言し、「しかし解決はあります」などと発信するのは、ソクラテスのいう無知を通り越した(治療者を自認する人々の)傲慢極まりない偽善ではないのか、そういうことは、実際に薬物中毒となって死に直面し、そこから生還を果たした経験のある人たちだけに許された言葉なのではないか、そんな風に思うのです。
いまはどんなに知識や才能のある人でも、不道徳な行いや、倫理に悖る行為を暴かれては非難され、またそれらを暴き、非難する側の人たちも、「明日は我が身か」と内心戦々恐々とし、攻撃は最大の防御なり、他人の不幸は蜜の味とばかりに、ひたすら個人情報を隠し続けて陰で悪い行いをしたり、関係もない他人の「不徳」に首を突っ込んでは妙な溜飲を下げたりしているおかしな時代です。
でも、こういう時代だからこそ、「そもそも人間とはそんなに立派な存在だったのか?」という原点に立ち戻ることも必要なのではないでしょうか。
アウグスティヌスも、きっと人間の善と悪の問題について悩む前に、通ってきた道なのだろうと思います。
今回は岩波文庫の『プロタゴラス-ソフィストたち-』プラトン著 藤沢令夫訳を読んだのち、光文社古典新訳文庫の『プロタゴラス-あるソフィストとの対話』プラトン著 中澤務訳を続けて読んでみました。
本文・解説とも後者の方が(新訳だけあって)わかりやすいのですが、岩波文庫の方もなかなか示唆に富んでいて考えさせられます。
知識を蓄えて学者となり、名誉や賞賛を得ることや、経済的に豊かになって暮らしにゆとりが生まれることが、はたして人徳につながるのだろうか?こんなテーマで問題を批判的に吟味し、(読み終わっても、すっきりとした答えが提示されないことも含めて)真理を探究してみたいという人には、うってつけの本ではないでしょうか。