東白楽駅を出た東横線は、右方向へカーブを切りながら進路をやや西へ振ります。
以前は反町駅まで高架線でしたが、みなとみらい線開通にあわせた東横線横浜駅地下化工事に伴って、ここで電車は地下に潜るようになりました。
前は車窓から山内ふ頭に隣接する浅野造船所に並ぶクレーンが遠望出来て、「ああ、横浜にやってきたんだなぁ」と実感することができたのですが、地下になってしまえば旅情もありません。
もっとも造船所はほかの場所へ集約、移転となり、クレーンも撤去されて久しく、港までの間にビルが建ち並んだために、景色も変わってしまっていましたが。
現在線路上は東横フラワー緑道として、歩行者に開放されていますが残念ながら自転車は乗り入れ禁止です。
(押し歩きなら可能)
わずかなスペースでも良いから自転車専用レーンを設けてくれればよかったのに、歩行者との交差接触を恐れてか、横浜市にはそのような考えはないみたいです。
この東横フラワー緑道の起点近くから分岐(35.479670, 139.630248)しているのが、滝ノ川せせらぎ緑道です。
滝の川は河口の近くで東海道の神奈川宿を二分するように、流れていた川ですから、この緑道をたどってゆけば、自然に旧神奈川宿に至ります。
国道1号線のバイパスを横断(35.478843, 139.630458)し、そのまま直進すると反町公園の東端の二ッ谷の交差点(35.475618, 139.630571)に出ます。
ここで国道1号線を渡り、すぐにJR、京急とガードをくぐります。
線路と線路の狭間、左側にあるのが以前ご紹介した浦島寺こと慶運寺(35.475002, 139.631049)です。
ここにフランス領事館が開かれたのは横浜の開港当初ですから、1858年か59年のことです。
当時フランスは二月革命による第二共和政(ナポレオン3世)の時代で、積極的に外国へ出兵する政策をとっていました。
日本でも、1863年と翌年に行われた下関戦争に軍艦を派遣しています。
この付近は横浜駅が近いため、線路も集まってきており、向こう側へ渡る道路が限られているため、車も集中しがちです。
JRのガード下から下流は滝の川が顔を出します。
二ッ谷町交差点から190m先を左折し、90mほど入った左側が、旧東海道の旅でもご紹介した浄土宗の成仏寺(35.474723, 139.632181)です。
ここでヘボン博士と同居していたのが宣教師のブラウン博士(サミュエル・ロビンス・ブラウン1810-1880)でした。
彼は日本語が達者だったようで、日本語聖書の翻訳もし、居留民や外交官に向けて日本語語教室も開いています。
一時アメリカへ帰国し、再来日後は横浜の洋学校で英語教師も務め、のちにブラウン塾なる私塾を開いてこれが高輪にある明治学院の前身となりました。
滝の川沿いの道に戻り、今度は70m先を右折して土橋で川を渡り、すぐ右折して北へ60m戻った場所にある日蓮宗浄龍寺が旧イギリス領事館跡(35.473645, 139.631049)です。
この裏手の丘の上の本覚寺(35.472177, 139.626704)にアメリカ領事館がありましたから、この辺りは開港当初はさしずめ領事館銀座のような状態だったのでしょう。
先のフランス領事館のところで説明した下関戦争は、ここに領事館を構えた駐日公使のラザフォード・オールコックの主導で行われました。
もっとも、下関戦争は長州藩が幕府に無理やり攘夷実行を約束させて、馬関(下関)海峡で外国船に対して大砲を打ち掛けたのが原因で、その報復戦争なのです。
当時は生麦事件(1862年9月14日)に象徴されるように、「尊王攘夷」は今でいう「環境保護」みたいな世相を覆う思想でしたから、開港当初に来日した外国人は、枕を高くして眠ることもできないほど物騒だったといいます。
もちろん、日本側にも貨幣流出による物価の高騰や、コレラに代表される外国人が持ち込む疫病の流行など、排外運動には理由があるのですが。
橋を渡って逆に左折し一本目の路地を右に曲がって50mさき左側にあるのが曹洞宗の宗興寺が、ヘボンさんが施療所を開いたお寺です(35.472318, 139.631398)。
生麦事件にさかのぼること2年前の1960年、ヘボン博士とそのお友達たちは、この裏手の丘の上から尾張藩の大名行列を見物していました。
沿道の庶民はもちろん土下座しているわけですが、遠くで立ったまま見物している外国人のグループに、藩主徳川茂徳は駕籠をとめさせて小窓を開け、オペラグラスで彼らを覗いたのだそうです。
そうしたら、一行のうち帽子を被っていた一人が、脱帽して駕籠の主に向かって深々とお辞儀をして、行列は何事もなかったように出発していったのだそうです。
このお辞儀がなければ、裃を片方外し抜刀した供回りの侍が丘の上めがけて駆け上がっていたのかもしれません。
たとえ相手がお殿様でなかったとして、誰に対しても敬意をもって接するということは、時と場所を違えても大切なことだと思います。
なお、旧東海道神奈川宿の青木本陣跡碑は滝ノ川右岸にも小さくありますが、大きいものは第一京浜(国道15号線)横断した中央市場入口東角(35.471401, 139.631886)に存在します。
(国道15号から滝ノ川の上流方向を望む)
さて、神奈川宿のお散歩はこれくらいにして、今来た道を戻りましょう。
東横フラワー緑道へ戻ったら、緑道の側道を反町駅方面に向かいます。
この時点で緑道は高架なのですが、だんだんと地面レベルまでおりてきます。
側道と緑道の高さが同じになった場所にはベンチと水飲み場だけがある小さな公園になっています。
その南側にあるマンションの角にあるのが、新太田町駅跡の碑(35.478408, 139.628627)です。
東横線開業時の1926年から1945年5月の横浜大空襲で被災するまで、ここには高架駅がありました。
東横線が地下化するまでは、鉄道の高架部分に遺構が残っていたのですが、今は影も形もなくなりました。
昔は車両の編成も短かったのですが、都市部の駅間がかなり詰まっていたようです。
東白楽駅から570m、反町駅からもほぼ等距離のこの位置に駅があったなんて。
(新太田町駅跡の碑。マンションの植え込みにあって、分かりにくいかもしれません)
さて、そのまま東横フラワー緑道を進んでゆけば、国道1号線(バイパス)に突き当たり、右手の信号を渡れば反町駅に到着ですが、その前に反町公園に寄って行ってみましょう。
新太田駅跡碑から140mさきで、東横フラワー緑道は暗渠と交差します(35.477489, 139.627496)。
これが滝ノ川の支流、反町川です。
左折して下流方向にゆき国道1号線(バイパス)に出たら右折し、すぐ先にある信号で横断します。
そのまま正面の路地を入ってゆけば、反町公園(35.475556, 139.629057)に到着です。
ここは以前花の写真をご紹介しました。
戦前この辺りは遊郭のある色町だったのですが、横浜大空襲でほとんどが消失し、戦後は進駐軍に接収されました。
接収解除後の1949年にここで神奈川県と横浜市が日本貿易博覧会を共催し、その時は前述の新太田駅が臨時駅として一時的に復活したそうです。
その後、パビリオンを市庁舎に転用したため、10年後の1959年までここが横浜市の中心でした。
1963年には市庁舎跡地を公園にしたのですが、ジェットコースターも備えた遊園地に近いものだったといいます。
そういわれてみれば、ここに遊園地があったような記憶がかすかにあります。
建て替えられてきれいになりましたが、東隣にあったスケートリンクはその名残だったといえましょう。
公園の東側にはバイパスではない方の国道1号線が走り、その向こうにJR線が行き来しています。
公園から国道1号線のゆるやかな坂道を横浜方面にのぼってゆくと、250m先の右側にサカタのタネガーデンセンター横浜(35.473284, 139.627812)があります。
今や京都のタキイ種苗とともに、全国区になった種苗会社ですが、大正2年に白楽駅と東白楽駅の間でご紹介した六角橋で産声をあげた坂田農園がルーツなのです。
それがいまやバイオテクノロジーの最先端をゆく企業に成長しました。
このガーデンセンター横浜は、サカタのタネ直営の販売店で、種や球根はもちろん、鉢植え用、花壇用を問わず観賞用の植物から野菜苗、果樹苗、山野草、盆栽、園芸資材、青果などの食品まで売っています。
脇にはカフェまであってイベントで料理教室や牛の乳しぼり体験までやっています。
ガーデニングに興味のある方は立ち寄ってみると面白いでしょう。
なお、週末は収拾がつかないほどに混雑しますし、駐車場は行列ですので、平日にブロンプトンで行った方が堪能できます。
サカタのタネから反町公園方面に国道1号バイパスまで戻り、桐畑信号(35.473878, 139.628874)を左折して西へ道なりに向かえば350mで反町駅に到着です。
次回は反町駅周辺をご案内します。