佐屋街道万場宿の桑名寄りの端にある國玉神社前から京へ向かってブロンプトンを進めます。
神社の境内に沿って右折すると、旧道は徐々に名古屋高速5号線が空に蓋をする岩塚本通りに寄ってゆき、420mさきの万場交差点(35.156980, 136.828229)で交差します。
右手に浅間神社(35.158138, 136.827939)を認めながら住宅と畑が混在する細い路地を左折、右折、左折とクランクをくりかえすのですが、標識は全くありません。
よって、初めての方はナビに経路を登録しておくことをお勧めします。
主動脈の旧東海道に比べて、脇往還の佐屋街道は極端に情報が少ないため、事前準備が肝要です。
(でもなぜかストリートビューで見ると路面に「佐屋街道」と表示されるのですが)
浅間神社のあたりで名古屋市域を出て、あま市との間でいまだに町制を敷く大治町(おおはるちょう)に入ります。
理由は町が名古屋市とあま市のどちらと合併するかもめているらしいのです。
名古屋市のベッドタウンという事情から、人口増加に伴って、新住民は名古屋市との合併を望み、一方の前から住んでいる人々は、庄内川の右岸でもあり、もともとつながりが深いあま市との合併を希望しているそうです。
そして砂子橋(35.159866, 136.825954)で新川を渡ります。
新川はその名の通り江戸時代に開削された人工河川で、庄内川の放水路のような役割を果たしています。
砂子橋を渡る際に注意していればわかりますが、新川の両岸はかなり堤防を高くしているため、橋の両端は坂道になっています。
東海道が七里の渡しで迂回しなければならないほど、ここから木曽三川にかけての地域は低地で湿地帯でした。
江戸時代中期に庄内川はたびたび洪水を引き起こし、特に右岸の農民から河川改修の嘆願が出ていたのですが、尾張藩は財政のひっ迫を理由に拒絶していました。
そうこうしているうちに、1779年に庄内川はいまの名古屋市内までをも襲う大洪水を引き起こし、ついに放水路の開削に着手することになりました。
ところが、水害によって財政は悪化する一方だったため、工事担当者はわざと過少見積もりを藩に提出して工事の見切り発注をさせました。
結局3年の突貫工事と40万両以上の総工費を費やして、1787年に竣工しています。
なんだか現代とさして変わらないことをやっていますね。
ただ、予算を過少申告した責任者は降格人事で済み、切腹などには至らなかったそうです。
新川を渡り終えた佐屋街道は、180m先で向きを西から北へ転じます。
このあたり、ルートを俯瞰するとジグザグに北西へと向かう感覚です。
両側にどっしりとした瓦屋根をいただく、垣根を備えた農家をみながら、県道117号とはいいながらも、細くてあまり車のこない路地をすすみます。
注意深く観察していると馬頭観音を祀っているとおぼしき小さなお堂をみとめ、ここが旧街道だとわかります。
この辺りがいちばん脇往還らしい雰囲気です。
300m先で左折しふたたび西へ向かいますが、そこからさらに300m先右手、稲荷社(35.159866, 136.825954)先路地入口には「佐屋街道」の表示の上に右折すると「従是馬嶋明眼院道」の表示があります。
この細い道を入ってゆき、大治南小学校を左にみながら光雲寺へ突き当たったら左へ迂回し、太閤通りを馬島交差点で横断した突き当り(地図を参照のこと。佐屋街道稲荷社前から1.25㎞)にあるのが、天台宗の明眼院(35.174616, 136.820573)です。
ここは最澄の直弟子が802年に開基したと伝えられる古刹で、本尊は奈良時代の行基作とも伝えられる薬師如来像です。
南北朝時代以降に戦火で荒廃したこのお寺を再興したのが、清眼というお坊さまです。
南北朝も中期(1357年)のころ、彼が就寝していると、夢に異国人があらわれて眼病治療の秘伝と、効用のある霊水が湧く場所を示したそうです。
目を覚ますと枕元に眼病専門の漢方医学書が置かれていて、お告げのあった場所に行くと、本当に水が湧いていたのだそうです。
清眼は夢の中の異国人を薬師如来の化身と考え、以降お寺を眼病専門の病院にして治療にあたりました。
これが馬嶋流と呼ばれる眼病治療の発端です。
馬嶋明眼院の治療は洗眼や鍼などの漢方中心でしたが、結膜炎や白内障などの水晶体異常にも効果をあげたため、その名声は全国に広まり、安土桃山期には天皇や皇族の眼病を治療し、江戸時代に入ると茶人として有名な大名の小堀遠州や、画家の円山応挙なども訪れたそうです。
その後江戸中期にいたってこの寺の住職は長崎に遊学して蘭方の眼科医術を学び、明治期に僧医が分離されると、子孫は名古屋市立大学や藤田保健衛生大学の医学教授になっています。
ちなみに東京上野の国立博物館庭園(春と秋の年2回公開)にある応挙館は、明眼院の書院を寄贈されて再移築したもので、室内の墨画は応挙が治療で逗留した際に揮ごうしたものと伝えられています。
画家にとって、眼は命でしょうから。
それにしても、夢に現れた異国人の話はできすぎですよ。
タイムスリップした来日中国人眼科医の話としてSF小説を描いたら、中国でバカ受けしそうな気がします。
佐屋街道も近いことですし、きっと本当にかの国から来た心得のある僧侶が立ち寄ったのが、何らかの理由で「夢の中でお逢いしました」に書き換えられたのではないでしょうか。
話を佐屋街道に戻します。
やがて正面に高速道路が見えてくると、名古屋環状道路2号線を稲屋交差点(35.164683, 136.817207)で横断します。
ここから先は2車線の車が行き交う県道になります。
歩道も整備はされているものの、広さも十分でなく凹凸も激しいので、ブロンプトンなら車道を走ることになると思うのですが、少し危険です。
最近思うのですが、恰好などつけるより安全の方が大切ですから、旅の際は道路工事関係者の着るような反射板のついたベストを着用してヘルメットは被った方がよいのかもしれません。
稲屋交差点から80m先右側が、私設の横井庄一記念館(35.164788, 136.816247)です。
私などの世代は知らない人はいないほどの有名人で、グァム島の山中に終戦を知らずに28年も残留していた日本兵です。
ここは普通の住宅で看板も出ていないから知らなければ絶対に気が付きません。
毎週日曜の昼間だけ無料で開設されています。
横井さんというと、1972年に帰国した際の発言が記憶に残っていますが、「恥ずかしながら」は生きて戻ったことに対してだと思うとき、戦陣訓の文言がどれだけ当時の戦士を縛っていたのかが偲ばれます。
そう思ったら、酒席で暢気に「同期の桜」なんて歌えないと思うのです。
佐屋街道をそのまま道なりに進むと、またもや北方向へとカーブしてゆき、稲屋交差点から950m先で太閤通りを突っ切り、その130m先の狐海道東交差点(35.170533, 136.810641)で左折して西進します。
この間いったん名古屋市に戻ります。
それにしても、狐海道なんて変わった地名です。
もともとは狐街道という字だったそうで、稲荷社があったからとか、狐が頻繁に出没していたからという説のほかに、夕方に松並木の街道をゆく旅人たちの提灯の列が、遠目にみると狐火のようだったからという、幽玄な話もあります。
西へ向かう佐屋街道は320mさきの秋竹橋(35.171590, 136.807283)で福田川を渡ります。
ここからはあま市に入ります。
これまた平仮名の珍しい市名ですが、もともとは「海部」で「あま」と読んでいたものを開いたのだそうです。
橋を渡ったすぐ先の秋竹交差点(35.171989, 136.805838)を右折して県道139号線を2.09㎞北へ向かった右側に、賢婦として名高い前田利家の妻、まつ(芳春院)の出身地の碑(35.190751, 136.805025)があります。
そしてさらに県道を北上し、名鉄津島線の踏切を渡って突き当りを右折、七宝駅手前の水道道を左折して1.67㎞たどれば、戦国から江戸にかけての武将福島正則の生誕地(35.207627, 136.795643)に到着します。
福島正則は、豊臣秀吉子飼いの大名の中でも武闘派の最右翼というイメージです。
特に文禄・慶長の役から関ケ原の戦いにかけて、官僚の石田三成と激しく衝突しました。
でも、彼は尾張や備前の知行地で灌漑設備を設けて農地開拓をすすめ、領民に善政を敷いたという一面も持っています。
晩年は不遇で、信州の小京都である小布施にお墓があることは意外に知られていません。
それにしてもこの対照的な2人の出身地は直線で2㎞と離れていないご近所なのです。
芳春院と福島正則は年齢こそ14歳違いですが、ともに秀吉とは深い関係がありますから、まったく面識がないことは考えられません。
その割には小説やドラマなどでこの2人がからむ話は殆どないのが不思議です。
なお、あま市は刷毛の産地として生産量は日本一だそうですが、それはもっと北部の方で、佐屋街道の周囲では全く目立ちません。
秋竹交差点から佐屋街道を600m西へ向かうと七宝庁舎北信号(35.171922, 136.799119)です。
このあたりはは七宝町といって、その名の通り七宝焼きが盛んです。
七宝自体は紀元前から存在しますが、江戸後期に尾張藩士の梶常吉という人が、オランダ船が持ち込んだ七宝の皿を徹底的に分析し、尾張七宝と呼ばれる独特の製作技法を考え出したことから土地がそう呼ばれるようになったそうです。
交差点から街道を右折して北へ1.45㎞進み、突き当りを左折して200mほどいった左側に、七宝焼ふれあい伝承館(35.183752, 136.799599)があり、定期で60分から120分の体験教室が開催されています。
佐屋街道は両側に田んぼの広がる見通しのよい直線を西へ向かいます。
冬場だと関ケ原からの吹き出しが右方向から冷たく吹き付けます。
正面には養老山系の山並みが壁のように立ちはだかっていますが、日によっては雪で真っ白になっていたりもします。
相変わらず県道は交通量も多く、歩道は狭くて通学時間帯などは自転車も行き交っていますので、注意深く進みます。
七宝庁舎北信号から1㎞で蟹江川を渡り、2.2㎞先の神守町交差点で西尾張中央道(県道65号線)を越え、その350m先の神守町下町交差点( 35.174679, 136.771874 県道の幅員がさらに狭くなり、歩道もないので右折には注意してください)で右折すると、佐屋街道の神守宿に到着です。
次回は神守宿から津島を経て、佐屋宿へ向かいます。
旧東海道ルート図(金山駅入口~弥富駅入口)
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=2f8e842b8bdd0b584f5bac60ba8df099