さて旅の始まりは渋谷駅です。
そう、いまや世界的に有名になった渋谷駅(笑)。
でも、渋谷の名所旧跡って、どんなところがありましたっけ。
ハチ公?それともモアイ?
いえいえ、それらはシンボル(象徴)でしょう。
109のような商業施設はいつどうなるかわからないし、渋谷川?
たしかに駅のすぐ脇を流れていて、暗渠ではない部分もありますが、あれを見てもなかなか昔の姿を想像できません。
実はお城があったのです。
むかし、といっても平安時代の後期ですからかなり前ですが、後三年の役(1083-1087)で源義家(八幡太郎義家のことです)に従い奥州を攻めて武勲をあげた武士に、河崎基家がいました。
彼はその戦功によって、現在の渋谷区から港区の一帯に土地を与えられ、八幡宮を勧進しました。
その子重家は、八幡宮の地に館を構え、居城としました。
それがいまの金王八幡宮がある場所です。
行って見れば分かりますが、神社は渋谷から六本木方面へ坂をのぼる途中で右へ入ったあたりに所在して、ちょうど渋谷川を外堀に、南側の谷間を外壁に見立てた天然の要害で、いまのようにビルが林立していなければ、渋谷川に沿って南北に走る往来が手に取るようにつかめる場所だったと思います。
城といっても平安時代のことですから、今の感覚でいえば「砦」でしょう。
河崎重家は京で御所の警備に就いていたとき、捕えた盗賊の名があまりに立派だったので、天皇からその盗賊の名を賜り、渋谷姓を名乗るようになったのが、現在の渋谷の地名の由来であるという説があります。
彼はその子に金王丸という名をつけます。
この金王丸は保元の乱(1156)において源義朝に従い武功をあげます。
しかし、続く平治の乱(1160)で主君義朝が敗れ、東国へ落ちのびる最中に尾張の国で討たれると、京へとって返し、義朝の側室である常盤御前に報告し三人の子を救うように助言します。
この三人のうちのひとりが義経で、『平治物語』や『義経記』において、母の常盤御前が平清盛の面前で子どもたちの助命嘆願をした話は有名ですよね。
やがて平家の台頭する世の中になり、渋谷の館に戻った金王丸は、出家して名前を土佐坊昌俊と改めました。
頼朝が関東で旗揚げすると、昌俊は源氏の再興を願って頼朝について治承・寿永の乱を戦い、平家滅亡のあとは鎌倉の二階堂に館を構える幕府御家人となりました。
ところが、頼朝と義経の仲違いがはじまると、昌俊はみずからすすんで義経討伐を引き受けます。
1185年10月、昌俊は弟とともに100騎に満たない軍勢で鎌倉を経ち、京都の義経の館を襲撃しますが、このことを予見していた義経側の反撃にあい、捕えられてしまいます。
義経はかつての母との経緯からか、昌俊を助命しようとしますが、本人が「頼朝に忠誠を誓ったのだから命はいらない」といい、武蔵坊弁慶の強い意見もあって処刑され、六条河原に梟首されました。
これらはすべて『義経記』や『吾妻鏡』の断片をつなげたお話で、義朝に従った金王丸と、頼朝配下の昌俊は別人だという説が有力です。
鎌倉時代のことともなると、信頼できる一次資料も乏しく、はっきりしたことがわからないので、推測に頼る部分が多くなるのでしょうね。
鎌倉時代のことともなると、信頼できる一次資料も乏しく、はっきりしたことがわからないので、推測に頼る部分が多くなるのでしょうね。
ただ、この話は歌舞伎などに取り上げられて広く膾炙しています。
なお、境内には後の1189年に藤原泰衡を討つべく奥州に向かった頼朝が、父義朝に従った金王丸の忠義を偲び、その名を顕彰するために、鎌倉から移植された桜があります。
金王桜と名付けられたこの桜は、同じ枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜だそうで、傍らには芭蕉の句碑もあります。
「しばらくは 花のうえなる 月夜かな」
これだけ建てこんでいると、夜桜を見に出かけて月を重ねられるかどうか分かりません。
しかし、三月の最終土曜日には、金王丸祭があって、このお宮に伝わる彼の木像も開帳されるということで、お花見方々立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
次回は旧街道の旅に則って、次なる駅、代官山へと向かいます。