旅と読書をこよなく愛する自分にとって、文庫本の存在は偉大です。
「文庫本を旅行鞄にしのばせて…」って旅情があると感じてしまうのです。
中学生の時、八方尾根への春スキーからの帰り道、大糸線から新宿へ直通する急行アルプスに乗った時のことです。
穂高だったか有明だったか、途中からドヤドヤとザックを背負った山男の集団が乗ってきて、ひとりの大学生とおぼしき男性が開いていたボックスシートの向かい席に腰かけたのです。
頭にバンダナを巻いた彼がリュックから取り出した文庫本は新田次郎著「孤高の人」。
(登山家、加藤文太郎さんの評伝です)
私は車窓から見える残雪の山々に目をうばわれていたのですが、列車が塩尻を出て大八周り(※)に差し掛かるころ、ふとお向かいさんを見ると、読書しながらボロボロと涙をこぼしているではありませんか。
(※当時の中央線に塩嶺トンネルは存在せず、辰野経由だったのです)
もちろん、登山に興味はないので私は未読だったのですが、当時強力みたいないでたちの新田次郎先生が書く小説って、泣くような場面があるのかしらんと興味が湧いて、東京へ帰ってから文庫本を買って通学の車内で読んでみたのです。
用心深く準備周到な主人公が、最後はパートナーとともに遭難死するお話で、泣きはしませんでしたけれど、登山って厳しいものなのだと感じました。
こんな風に、中学生の私にも手がとどく値段で、軽くて小さくてポケットにも入ってしまう文庫本は、通勤・通学はもちろん、旅の最中のほんのわずかな列車待ち時間にちょっとだけ読んでいても、思い出深く豊かな時間が流れるのです。
だから、余計な荷物になるとわかっていても、旅の鞄の中に文庫本を最低でも一冊入れるようにしています。
家から出る直前に、旅に連れてゆく一冊の本を棚から選ぶのに迷うのもまた、楽しいものなのです。
これに対して、電子辞書ならコンパクトでたくさんの本を持ち歩ける意見もあります。
しかし、私はアナログだと批判されても文庫本をお勧めします。
本の持つ質量感や、どこまで読んだかという栞の位置、それにこれまで読んできたページが掌に触れる感覚など、本を読むという所作が大事だと思うのですよ。
Kindle版を購入したり、自炊したりすれば電子化できると分かっていても、旅先でスマホやタブレットで青空文庫を読んでいるのは、どこか違和感がつきまとうのです。
液晶画面をタップしたりスライドしたりするのと、ページをめくる動作はやはり違うし、金属や樹脂の電子機器と、紙の本を持つのでは手触りも質感も違います。
やはり本物の書物は電子製品では代えられないと感じるのです。
それに選択が無いということは否が応でも持ってきた本に向き合わねば読めないわけで、それはそれで、その本と私の出会いであるし、好きなトピックスだけをだらだら読むのとは本質的に違う気がします。
ということで、今回は関東近辺で個人的に文庫本を読んで列車の到着を待つのにぴったりじゃないかという駅を、思い付きでいくつかあげてみましょう。
条件としては、
・列車がなかなか来ない(本数が少ない)
・通勤の匂いがあまりしない
・適度な静けさがある。(交通量の多い道から離れている)
・居心地が良い(気温や風の有無など)
・ベンチがある(アメリカの公園にあるような背もたれの大きいタイプがあったらいうことなしなのですが)
・景色や雰囲気が良い
などがあげられますが、少し前にブームになった全駅下車されている方のホームページなども参考にされると良いと思います。
○篠ノ井線:姨捨駅
東京から遠いじゃないかとお叱りを受けそうですが、なんたって日本三大車窓の駅ですから。
本を読んでいなくても景色に見とれます。
○中央本線:勝沼ぶどう郷駅
今は桜の木が大きくなってしまいましたが、その向こうは南アルプスが屏風のように連なり、山の中腹のせいか、風通しも良いのです。
○東海道本線:根府川駅
ホームから海が見下ろせて、海風も心地よく、朝夕の空が染まる時間帯はとても美しい雰囲気です。
でも、電車はわりとすぐに来てしまいます。
海を遠望するのなら、二つお隣の湯河原駅もお勧めです。
○吾妻線:祖母島(うばしま)駅
何があるわけではないのですが、前に田んぼがあってその向こうが川、さらに向こうに山というロケーションが、うまい具合に配されている駅だと思います。
周囲に車が全く寄ってこないシチュエーションなので、静かです。
〇いすみ鉄道:月崎駅
映画などのロケに使われる駅は、雰囲気が良いのです。
今からの季節は菜の花と桜がきれいでしょう。
上記のような駅にブックカフェをオープンしたら面白そうだと思うのですが、人件費がかかるというのなら、大きなテーブルに椅子、それからポットだけでも置いてもらえるとゆっくり本が読めるのになぁ、などと思います。
わたしが嘱託で無人駅の管理を任されたら、駅舎でブロンプトンを貸しながらマスターやるのになぁ、などと勝手に妄想しているのでした。