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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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TY14綱島駅

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(綱島駅西口)

開業時は綱島温泉駅でした。
多摩川に遊園地を開園し、綱島には温泉と、当時の東急電鉄の社長さんは、阪急の手法をだいぶ模していたようです。
もっとも、阪急の社長さんも経営陣に名を連ねていましたから、デベロッパーとして関西と関東で同様の実験をしていたともとれます。
そんなわけで、綱島はその昔「東京の奥座敷」や「関東の有馬温泉」と呼ばれていたのだそうです。
いまやその座は熱海や箱根、伊香保、塩原、那須などに奪われて久しくなります。
ふと思ったのですが、「横浜の奥座敷」ってどこなのでしょう。
検索してみると、金沢八景の奥にかつて存在した鉄温泉と、東海道の原宿交差点から大船方面へと下って行った九つ井が出てきたのですが、どうなのでしょう。
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(かつて綱島街道沿いにあった唯一の日帰り入浴施設、東京園)
 
話を綱島に戻します。
綱島という地名は、川の中瀬に浮かぶ島という意味の「津の島」とか、連なる島からきたとか諸説あります。
そして前回、ここは温泉場として栄えたと書きましたが、それ以前から物流の集積地としてにぎわってきました。
それはすぐ南側に鶴見川が流れていて、大綱橋で綱島街道と交差しているからです。
まだ動力を牛や馬に頼っていた時代、水運は重要な物資運搬手段でした。
馬車や牛舎より少ないエネルギーで大量の荷物が運べますから。
鶴見川は(多摩川も同じですが)、今でこそ治水対策で水量が減っているものの、その昔は洪水を引き起こす暴れ川でした。
いまでも大雨の後に東横線の車窓から川を見ると、「昔はかくありなん」という状態です。
対岸にある自動車の教習コースなど完全に水没ですから。
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(2015年末まで営業をしていた旅館。ビジネス利用が多かったそうです)
 
そして、ここから荷揚げして綱島街道を北の丸子橋方向へ、あるいは神奈川宿方面へと積み替えをする場所がここ、綱島だったわけです。
物資の集積地ということは、人もお金も集まるのです。
当然荷役や空船を回漕する沖仲仕(おきなかせ)と呼ばれる人夫たちが集まります。
すると、「飲む、打つ、買う」が三拍子そろった人たちが少なからずいらっしゃるわけです。
そうした時代は江戸後期から明治にかけてのいっときだったのかもしれませんが、昭和に入っても戦後の占領期には温泉街が米軍の遊興、慰安施設になっていたそうです。
自分が子どもの頃の綱島にはどこかにそうした残り香がありました。
駅前のバスターミナル横に、コップ酒を立ち飲みするスタンドがありましたし、今復活したかもしれませんが、ホームのすぐ先のビルの屋上にはビアガーデンがありました。
子どもの頃、習い事でこの街に通っていたことがあるのですが、やたらパチンコ屋さんのネオンが目立っておりましたし、前回少しふれた温泉宿は、「さかさくらげ」と大人が隠語で呼んでいて、夜など赤や緑のケバケバシイ電光管のネオンが宿名を示していて、子ども心に妖しい雰囲気を感じていましたから。
ただ、今はそのような雰囲気はほとんどわからなくなりました。
昔旅館だった敷地にはマンションが建ち、大型のショッピングセンターもできてベッドタウン化しています。
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(鶴見川土手から大綱橋の向こうに富士を望む)
 
鶴見川は下流へは東海道の間の宿である鶴見付近を流れ東京湾に注いでいます。
上流方面は、大綱橋の650mほど上手で早渕川と鶴見川本流に分かれています。
早渕川をたどると、港北ニュータウンのセンター南や田園都市線のあざみ野駅付近を通り、源流は、横浜市青葉区の美しが丘付近になります。
鶴見川の本流は、新横浜から鴨居付近までは横浜線に沿って、そこから田園都市線の市ヶ尾駅の南、さらに小田急線の鶴川駅裏手を抜けて、源流は多摩市と境に近い町田市の小山田になります。
川沿いの土手道はサイクリングコースにもなっていて、「自転車ハイウェイ」さながらですが、川自体がけっこう蛇行や湾曲を繰り返しているため、例えば東横線の綱島駅から小田急線の鶴川駅まで走っても、それほど近道をしたという感覚はありません。
そのあたりの事情は神田川でも書きましたが、たとえば他の道路の迂回路として使うのでもない限り、川沿いのサイクリングは川そのものを楽しむことに徹した方がよさそうです。
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(東照寺)
 
綱島駅周辺では、西口正面の道をまっすぐ120m行ったところにある曹洞宗の東照寺(35.537781, 139.632998)へ行ってみましょう。
江戸前期に開山したこのお寺は、薩摩藩主・島津公との結びつきが強く、歴代住職の中にも薩摩出身者が複数いらしたそうです。
本尊は12年に1回しか開帳しない秘仏だそうです。
また、古くから布袋尊を祀り、横浜七福神の一体に入っています。
東照寺を背にして右方向へゆき、別所交差点(35.537109, 139.631947)で県道106号線に出たら右折し220m先の信号をまた右折します。
綱島駅の北側にある綱島台は、駅からそのままのぼると急ですが、このように迂回するとわりと楽にのぼることができます。
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(綱島台公園のなかにある古墳)
 
綱島台の上にあるのが綱島公園(35.539702, 139.635364)です。
ここもまた、多摩川台や夢見ヶ丘同様に古墳です。
このあたりの丘は東の駒岡も含めて、みな墳丘であったり住居跡だったりするようです。
高台は樹木に覆われているため、見晴らしが良いとはいえませんが、丘の下に広がる低地部分が海だったことを考えると、かなり良い景色だったと思うのです。
それこそ、この前ご紹介した九十九島の向こうに富士山がそびえているという、お風呂屋さんのペンキ絵そのものだったのかもしれません。
なんて贅沢なのでしょう、縄文・弥生人。
綱島台上はわりと広く、子どもの施設や広場がありますが、古墳のある場所がいちばん標高が高くて、35mちかくあるそうです。
平成に入ってからの調査によると、形は円墳で築造時期は5世紀後半から末と推定されるようです。
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(綱島台公園から武蔵小杉の高層マンションを望む)
 
公園内にあるプールには、子どものころに何度か泳ぎに来ました。
(今見ると、こんなに小さかったかなぁと思うほどですが)
もうひとつ、記憶がよみがえりました。
小学校2年生のとき、担任教諭が公園沿いのアパートに住んでおりまして、男の友だちとここまで片道3kmの道のりを自転車で来て電撃訪問したことがあります。
(本当はピンポンダッシュして帰るつもりだったのかもしれません)
意外にもすっぴんのまま出てきた先生は部屋にあげてくれて、お茶を入れてくれました。
その段になってやっと気づいたのです。
私たちは独身女性の一人暮らしの部屋にあがりこんでしまったことを(笑)
 
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ジーパンをはいて、ギターを弾きながら歌う学校では見たこともない先生の姿を目の当たりにして、友だちともども正座をして俯きながら黙りこんでしまうのでした。
「ほかのみんなの手前もあるから、今日のことは内緒よ」
帰り際に、背中でそう声をかけた先生。
思えば、生徒もその親も、学校もまたのんびりとした時代でした。
(卒業制作のトーテムポールに、ヘルメット被ってゲバ棒をもった大学生がいましたし、小学生の私たちは意味もわからず「アンポ、ハンタイ」なんて連呼しながらムカデ行進のまねごとをしていましたし、テレビでは高校の先生と生徒が夫婦をやっていましたからね)
あの日、少しだけ煙草の匂いのする先生の部屋を知ってしまったわたしたちは、ちょっと背伸びした気分になって、この経験を「男同士の秘密」として共有したものの、翌朝ばっちり化粧をして教師姿になって教壇に立つ先生を目の前にして、またもや2人だけで赤面しながら下を向いてしまうのでした。
あ、もちろんわしら今じゃぁ立派にノンポリですけぇ。
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すみません。
綱島はなんだか個人的記憶を連ねてしまいました。
前々回にご紹介した飯田家住宅や、セルロイドハウスは綱島駅が最寄り駅になります。
また、バスターミナルが駅のすぐ下にあって、鶴見駅やセンター南駅などあちこちへ路線がのびています。
ただし、川が近い街ということで、このあたりの道路は日中も激しく混雑することも多いので、ブロンプトンなら前述したとおり、川沿いの土手道を移動した方がバスに乗るよりも早く目的地に到達できるかもしれません。
 
次回は綱島駅から大倉山駅へと向かいたいと思います。

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