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旧東海道へブロンプトンをつれて 39.池鯉鮒宿から40.鳴海宿へ(その3―桶狭間古戦場はどこ?)

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旧東海道でもある国道1号線は名鉄本線の中京競馬場前駅脇のガードをくぐります。
180mさき大きな病院の手前にある信号を左折し80mさき右側にあるのが桶狭間古戦場伝説地(35.060003, 136.980807)になります。
前回も書きましたが、桶狭間の戦いがどこで行われたのかははっきりしていません。
ここには明治になって建てられた今川義元の墓があります。
ドラマのように大軍が細く長い帯状になって大休止していたところに、今川義元の所在めがけて織田勢が突撃したというのは本当のようですが、義元がその場で打ち取られたのか、近衆に護衛されながら退却する途中で打ち取られたのかも定かではありません。
それだけ混戦だったということなのでしょう。
伝説地をそのまま通り過ぎて直進し、その先のY字路を右へ1㎞すすんで右折した坂の下にある、桶狭間古戦場公園(35.055155,136.971301)のあたりは、名古屋市側の桶狭間の戦いが行われたといわれる場所です。
今回は、誰もがご存知の桶狭間の戦いについて振り返ってみます。
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(豊明市にある伝説地公園)

これまで旧東海道をたどってきて、今川と織田の勢力争いで戦いとなった場所をいくつか見てまいりました。
こうした争いはだいたい信長より二代前から続いていたのです。
駿河と遠江をおさめる今川氏は、もともと清和源氏の流れを組む室町幕府をひらいた足利氏の血筋で、代々駿河の守護職をつとめてきた名門です。
対して織田氏は尾張守護職である室町幕府の管領斯波氏の重臣から、主家の衰退に乗じて拡大してきた新興勢力です。
今でいえば財閥系の流れを組む重工業メーカーと、新手のベンチャーキャピタル商社が対峙するようなものです。
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 (病院の向こうが旧東海道です)

当初2つの勢力の間には三河の松平氏が緩衝材のような役割で割って入っていたのですが、何代か続けて頭領が早世するうちに、松平氏は今川氏に取り込まれてしまいました。
そのころの松平氏って、まるでロシアとドイツに挟まれたポーランドみたいな存在だったようです。
(家康が権力に異常な執着をみせるのも、わからないではありません)
そんな状況で、もとからの地盤のある今川氏は東の北条氏、甲斐の武田氏と三国同盟を結んで背後を固め、三河よりさらに西の尾張へと勢力の拡大を図っていました。
前回にご紹介した阿野一里塚付近から、旧東海道は丘陵地の谷間を縫って西へ向かっています。
ちょうどこのあたりは当時の三河と尾張の勢力範囲の境にあって、丘陵の尾根筋をそのまま南へたどると、知多半島の屋根(分水嶺)に続くというあんばいです。
織田氏はそのころ、今川氏のように古くからの地縁がないからなのか、伊勢湾をおさえることで海上交易から利益をあげていました。
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(赤が織田方 青が今川方)
 
今川氏は尾張侵攻にあたって、尾張平野の東端にあたる、笠寺(35.100818,136.931207)、鳴海(35.081482, 136.950241)の2城と、江戸時代の東海道をはさんでこの丘陵の南北にある大高城((35.064649, 136.936251))と沓掛城(35.069014,137.021726)を、寝返りをそそのかしたり(外交調略)や実力で攻めたりするなどして自分の勢力下におきました。
(城といっても戦国のそれですから、山の斜面に土塁をかさね、頂上を中心に木造の棟がいくつか建っている姿を想像して下さい)
この4城は、地図を見ればわかりますが、尾張から見て三河を完全に遮断するだけでなく、知多半島との間をも分断する位置にもありました。
さらに1555年に伊勢湾西岸の蟹江が今川の手に落ちると、織田家の財政基盤である伊勢湾の制海権は南からも圧迫を受けるようになりました。
こうした状況にあって、織田方からすれば、東から南からじわじわと勢力を浸透させてくる今川方に対し、ただ指をくわえて傍観しているわけにもゆきません。
いまの鳴海城に対しては、丹下、善照寺、中嶋、大高城に対しては、丸根、鷲津とそれぞれに前哨陣地としての砦を築くことで、けん制を行っていました。
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(伝説地公園の図説)
 
そこへ15606月、今川義元がおよそ3万の大軍を率いて、織田を攻め潰そうと当時の東海道を進撃してきたわけです。
今川方はまず松平元康(のちの徳川家康)に、織田方の砦によって孤立していた大高城に兵糧を届けさせ、ついで大高城と対峙していた丸根、鷲津の両砦を攻め落とさせます。
このとき、織田家の親類筋や重臣といった武将が、多勢に無勢で守戦を行った結果、壮絶な討ち死にを遂げています。
いっぽう、籠城戦に持ち込むのか、城から討って出て野戦を挑むのか揉めていた織田方は、信長が酒宴のさなかに敦盛(※)を舞ってからいきなり飛び出し、熱田神宮で兵を集めた後戦勝祈願した後に、敵方のおよそ10分の1である3千の兵で鳴海宿の北東にある善照寺砦に入ったのは、ドラマや映画の通りでしょう。
※敦盛→「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」(人間界の50年は下天の1日にしか過ぎず、人の一生など幻のようにはかないものだ)
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(明治になって建てられた義元の墓)
 
ここでよく問題になるのか、前哨戦の勝ち戦に気を良くして今川勢本隊が休息していたのはどこなのか、そして信長は義元の所在をどうやって突き止めたのかということです。
のちにドラマなどでよく描かれるのは、今川方のなかに織田の乱破、つまりスパイが紛れ込んでいて、義元を休憩場所へと誘導したり、彼の居場所を織田方に通報したりという話ですが、戦国なのでじゅうぶんありうることだと思います。
3万もの軍勢では、間諜や裏切り者が紛れ込んでいるかどうかなど、詮索も管理もできません。
そして信長公記にあるように、信長が清州城から突如として駆け出して出陣し、熱田神宮で後続を待ったのも、自分の側にもスパイがいて、こちらの動きを今川方へ通報されないよう、ごく親しい周囲の者だけに意図が通じるよう飛び出した感じです。
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(伝説地の方は谷戸の底です)
 
義元が休憩していたのは、状況からいって沓掛城と大高城を結ぶ中間地点で間違いなさそうです。
従来の説に従えば、桶狭間という名は峡間や窪地のような場所を指します。
資料によっては田楽狭間という名前をあげている本もあり、桶狭間あるいは田楽狭間はどこなのか、様々な谷戸を推定する研究がいろいろなされてきました。
ところが近年になって、桶狭間ではなくて「おけはざま山」という丘の上に義元の本陣はあったという説が有力になっています。
この説に従うと、桶狭間古戦場公園の北西、名古屋市南区桶狭間北3丁目508番地付近(35.054900, 136.972760)が義元の本陣があった場所ということになります。
現地を見ればわかるのですが、そこは北西に向けて開けた山の斜面で、信長が迎撃に出てきた鳴海や善照寺砦方面を見渡せる場所にあります。
ということは、従来のように見通しのきかない場所にいて、山の上から攻め込まれたのではなく、相手の動きがよく見える場所で、しかもある程度は警戒していたのに丘の下方向からいきなり襲撃を受けたことになります。
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(善照寺砦の跡は砦公園になっていました)
 
織田勢は桶狭間へ攻め込む前に善照寺砦から今川勢の正面にあたる中嶋砦へと移動しています。
そのときに、信長は1千の兵を善照寺砦に置いたまま、残り2千の兵で動いています。
ふつうに考えれば自分より巨大な相手に戦を仕掛けるのに、目前で兵を分散させてしまうなど、挟撃を仕掛けるのではない限り愚策です。
しかし、旗指物などはすべて善照寺砦に残しているということですから、これは欺瞞作戦の一環なのでしょう。
今川方のいるおけはざま山から見て、善照寺、中嶋の両砦は標高も低いのでよく見えます。
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(善照寺砦からおけはざま山方向をみる)

つまり、織田勢は善照寺砦で攻撃のタイミングをはかっているか、或いはこちらがおけはざま山を下って濃尾平野の一端に出てくるところを横から突くつもりなのか、いずれかだと今川方に誤認させておいたのではないでしょうか。
今川勢は織田方を嘲笑して萎縮させようと、これ見よがしに山の上で酒宴を開いていたのかもしれません。
ところが、小勢となって機動力が増し、隠ぺい行動が容易になった信長は、雷雨という好条件も手伝って、まるで獲物を狙う虎のように山のふもとまで忍び寄り、まさかすぐ傍まで来ているとは思ってもいない義元の本陣を、足もとからいきなり襲いかかったというのが、現在有力な桶狭間の戦いの様子です。
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(地形から両軍の動きを推量すると、こんな感じかな?)
 
こうなると、ドラマやお芝居も従来のように雷雨の中を馬に乗って坂をくだりながら突撃するのは誤りで、信長自身も徒歩になって、抜刀したままほふく前進して山の斜面をじりじりとのぼってゆき、いきなり立ち上がって見張りの兵に切りかかる、という脚本に書き変えねばなりません。
記録によると、信長は幼少のころから子ども同士の集団でケンカを繰り返していたといいます。
ケンカも戦争も同じですが、相手が警戒していようが油断していようが、自分の居場所が悟られていない状況で、さきに相手を発見するのがいちばん有利な状況です。
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(大高城址へののぼり)

現代の漫画に描かれるような、川原など広い場所で互いに時間をきめて待ち合わせてからはじめる集団乱闘だったら、間違いなく信長は今川勢からボコボコにされています。
・前哨戦の段階で今川勢の分断に成功したこと
・その時点ですでに情報戦において優勢だったこと
・間近まで相手に発見されることなく忍び寄って、いきなり接近戦に持ち込めたこと
織田信長が桶狭間の戦いに勝利した要因はこんなところでしょうか。
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(大高城址の上は広くなっています)
 
ここでもし、今川方が沓掛城に大将をおいて、残っている後詰め(予備兵力)をもって、きちんと善照寺、中嶋の両砦に攻めかかっていたなら、信長はもっと東にある沓掛城へゲリラ戦を仕掛けねばならなかったはずで、こんなにうまくいったかわかりません。
また、今川勢が武田家やその家臣たちのように、義元の影武者をたくさん用意しておくとか、清州は無視するつもりだとか、信長の傍にはスパイを置いている、等々の偽情報を流し織田方を撹乱させるような策略をめぐらせていれば、あんなにもやすやすと義元の首を取られることもなかったろうにと思います。
その意味では、今川勢にやはり驕りがあったのでしょう。
なお、この一戦で信長の勢力が拡大したわけではありません。
義元が討たれた直後、織田勢は退却する今川軍を追撃できるほどの力はなく、義元亡き後の駿河、遠江へ触手をのばしたのは、甲斐の武田氏でしたから。
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(鷲津砦跡碑)
 
桶狭間の戦いを俯瞰していて比較したくなるのが、太平洋戦争における開戦と転換点です。
ハワイ作戦を計画した山本五十六は「桶狭間の戦いとひよどり越え(一の谷の戦いのこと)を一度に行わねばならず」と手紙に書いたそうです。
大国としての驕りから慢心していたのか、最初の一発を撃たせるためにあえてしなかったのか、ともかく情報を活用しなかったアメリカと、冬場にほとんど船の往来がない北太平洋航路を無線封止して真珠湾へ忍び寄った日本の機動部隊の構図は、桶狭間の戦いとよく似ています。
そして、半年後のミッドウエー海戦では、日本の海軍は相手をおびき出そうと攻勢に出たものの、実は自分たちがおびき出されていることに最後まで気が付きませんでした。
結果的に、情報を最大限に利用して待ち伏せに徹し、先に日本の機動部隊を発見したアメリカ側が勝利をおさめました。
それもまた、桶狭間の戦いに似ています。
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(丸根砦跡碑 砦のあった岡は新幹線の車窓からすぐそばに見えます)
 
旧東海道を旅しているおり、半日だけ使って一部の史跡をまわりました。
まだ「義元本陣はおけはざま山の上」説を知らなかったので、大高城址、丸根、鷲津両砦跡と、善照寺砦から伝説地にかけてをブロンプトンで回りました。
とくに前哨戦となった大高城との距離感や、前回ご紹介した千人塚が、戦場から沓掛城への退却路に存在すること、このあたりの丘は標高が4050mながら、地形が複雑かつ谷が深く切れ込んで急斜面になっていることなどを観察できました。
もし桶狭間の戦いに限ってブロンプトンで走り回ってみるのなら、次のような順番で回ることをお勧めします。
(1)  今川勢の進軍路にあわせて
名鉄豊明駅→沓掛城址(今川方の前線兵站基地)→千人塚(退却時の遺体埋葬地)→桶狭間古戦場伝説地(現在もっともポピュラーな戦いがあったとされる場所)→今川義元本陣跡(現在最も有力とされる義元が討たれた場所)→桶狭間古戦場公園→大高城址公園(前哨線にて今川方の最前線基地)→丸根砦(前哨線で今川方が落とした砦)→鷲津砦(丸根砦に同じ)→鳴海駅方面(2)へ
(2)  織田勢のよう撃路にあわせて
名鉄鳴海駅→鳴海城址(織田方から今川方に寝返った今川方の最前線基地)→善照寺砦(織田勢が熱田神宮から進撃してきて最初に入った砦)→中嶋砦(織田勢が隠密裏に移動して桶狭間の義元を覗っていた砦)→おけはざま山(今川義元本陣跡)
 
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朝からブロンプトンでまわれば一日で十分の距離です。
沓掛城址から大高城址までの間を尾根筋で移動するには、愛知用水の流路をたどるのがいちばんです。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qo6tR-jk8r-un7oiP7RRJl-_vWU&hl=en_US&ll=35.0512628310805%2C136.95718955554196&z=15
神田川と玉川上水の関係でも説明した通り、用水路というものは水を落とす関係上、尾根の一番高いところを流れておりますので。
今川勢の進撃路も、この尾根筋にそっていたのではないかと推測しています。
このように、城址や砦の跡を自分の足で上り下りすれば、昔の戦のときの時間的、空間的感覚が実感できると思います。
織田信長や今川義元に関する文庫や新書を一冊ポケットに忍ばせて、これらの史跡で読んでみるのも面白いかもしれません。
今回は軍事オタクさんの喜びそうなお話のみで終わってしまいました。
次回はがらりと趣向を変えまして、池鯉鮒宿と鳴海宿の間の宿、絞りぞめで有名な有松をご紹介したいとおもいます。

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