近ごろ、ホテルの部屋に備えつけてある本のことで、もめ事が起きているようです。
しかし、部屋に常備されている書籍というのはどういう性格のものなのでしょうか。
わたしは日本のなかにある米国が本拠の主要なホテルチェーンの各部屋に、聖書が備え付けてあったのをおぼえています。
ベッド脇にライトを載せたチェストがありまして、その引き出しの中にホテルの宿泊約款と一緒に英語の聖書が入っているのを何度かも見ました。
もちろん、“Bible”なんで読めませんから、これは「聖書」という本だよと教えてもらっただけではありますが、ひょっとしたら、あれが私と聖書の最初の出会いかも知れません。
旅行のたびに観察していると、聖書のほかにやはり英文で夕陽の表紙の本が入っているホテルがあるのにも気づきました。
あれは「仏教聖典」(仏教伝道協会)の英語版であると、やはり教えてもらいました。
のちに海外へひとりで旅行するようになると、西欧の一定ランク以上のホテルにはだいたい英語の聖書が備え付けられていました。
もっとも共産圏や中国のホテルにはありませんでした。
(その代わりにマルクスや毛語録が備わっているという状況もなかったですけれど)
ところで、なぜホテルの部屋に聖書が備え付けられるようになったのでしょう。
1898年といいますから、日本では明治後期になります。
アメリカ、ウィスコンシン州のあるホテルで、偶然相部屋になったふたりの旅行者が、おたがいにクリスチャンであることを知り、部屋で一緒に聖書を読み、祈ったといいます。
その時に、「部屋に聖書が備え付けてあれば、旅行中に重い聖書を持ち歩かずに済むのに」という考えから、ホテルに聖書を配布するアイデアを思いついたといいます。
おそらく、その時代の聖書は持ち運ぶのに難儀するほど、大きくて重かったのでしょう。
これがギデオン協会発足のきっかけです。
最初は小さなボランティアだったこの運動ですが、30年後の世界恐慌の折、部屋で自殺する人が多くなり困っていたホテル側が、聖書を備え付けることで抑止効果があると気付き、協会の運動を後押ししました。
その後はホテルだけではなく学校や病院、刑務所などへも配布先を広げ、やがてはアメリカの外へもこの運動は広がりました。
実は私も、中学生になって学校で配布されたのはギデオン協会の聖書でした。
「ギオン」じゃなくて「ギデオン」とは何でしょう?
調べてみると、旧約聖書に出てくる支配者だか裁判長だかよくわからない人のお名前です。
もちろん、キリスト教を知らない自分は「なんか胡散臭いしこわい…」と感じたものです。
ただこの聖書、巻末に「しかじかこういう状況のときには聖書のこの部分を読むと良い」というインデックスがついていて、友だちと礼拝の時間にそれで遊んでおりました。
たとえば2時間目の宿題をやっていない時は「不安でしかたがないとき」とか、皆の前で恥をかいたときは「死にたくなったとき」の項目をひいてみるなどです。
でも、該当の個所を読んでも、それを読んでどうして安心したり、自殺を思いとどまったりするようになるのか、中学生のわたしにはさっぱり分かりませんでした。
いま考えると、配布の経緯からあのインデックスがついていたのでしょう。
市販の聖書にあんな項目がついているのを見たことがありませんから。
別にギデオン協会の肩を持つわけではありませんが、「教会」ではなくて「協会」になっているところに注意して下さい。
(仏教伝道協会も同様の公益財団法人です)
あの協会は確かに聖書を配ってはいますが、布教活動というよりは、純粋に聖書の普及運動をしている団体です。
そして宗派にはあまりこだわっていないようです。
その証拠に、宗派の違いで複数ある日本語訳も選択できるようになっています。
聖書は確かにキリスト教の聖典ではありますけれど、信者という立場を離れても、あの物語群は文学的にも、哲学的にも、とても奥が深くていろいろなことに気づかせてくれる内容だと思います。
本好きとしては、「書物の中の書物」ともいわれる聖書の無料配布をされているところに、頭の下がる思いです。
ただ、普通の日本人からすると、各家庭を訪問して聖書の抄訳と解説を配っている、あるいは街頭でプラカードを持って立ち、足もとの箱に同様のパンフレットを置いている、いわゆるなにがしかの宗教団体や教会の布教活動と区別がつきにくいですよね。
さて、その国際ギデオン協会が日本にも1950年に発足して、日本のホテルにも聖書を頒布するようになったため、子どもの私がホテルの部屋で聖書を目撃したわけです。
つまり、ホテルの部屋にある聖書とは(仏教聖典も含め)みな寄贈された本なのです。
翻って、今問題になっている部屋に常備の書籍とはどのようなものなのでしょう。
あるとき、某ビジネスホテルチェーンの各部屋に、ある心理療法について書かれた、ホテル創業者の本が置いているのを見かけました。
なんでも若いころに彼はこの方法で自らの人生を切り開いたということによるものだと、心理学系の雑誌に彼自身が寄稿しているのを読んだ記憶があるので、合点がゆきました。
今回もめている書籍も、私は読んだことありませんが、ホテルオーナーの著書ということです。
ということは、同じく部屋備えの書籍といっても、かたや寄贈品、かたや自己広告と、性格にかなりの違いがあります。
もちろん、書籍の印税収入を伸ばすためや、別事業の経費で大量に購入するのでもなく、ホテルに自分の書籍を自費で寄贈しているのでしょうけれど、それでも内容は自己主張という性格を免れないと思うのです。
私ははじめて海外旅行(ホームスティでした)に出る時に、「現地の人やホスト・ファミリーと、政治、歴史、宗教の話をしないように」と釘をさされました。
そういう時代だったのかもしれませんが、文化も立場も違う異国の人と、その類の議論をするのは、旅行(訪問)者としてのマナーに欠けるという常識を教えてもらいました。
ホスピタリティという観点から考えても、ホテルの部屋に政治や歴史に関する書籍を置くのは、どうかと思います。
本であれば、引き出しに入れたままにして読まなければ済むことだという意見もあるでしょうが、例えば子どもにはみせたくない類の本やパンフレットがチェストの中にあったら、たいていの家族連れは困りますよね。
その書籍が、どんなに学術的であっても、議論が分かれる問題をテーマにしていたら、人によっては問題にするのだと思います。
いっぽうで、宣伝と布教の違いはどこかと考えると線引きは難しいですが、少なくとも宗派にこだわらずに聖書や仏典を置くのは、それで胸騒ぎがする人よりも、静かに過ごせる人が多いのなら、サービスの一環になるのではないでしょうか。
あるいはイスラエルを旅するのに聖書を、奈良で古寺巡礼をするのに仏教聖典を読むのは、信仰のためというよりは知的好奇心によるものですよね。
もっとも、この問題を調べていたら、米国の無神論者団体がホテルの部屋から聖書を含むいっさいの書籍の撤去を求めており、ある大手ホテルチェーンが、独自の判断で一部系列のホテルについて、部屋に聖書を置くのをやめはじめているというニュースに接しました。
そういう時代なのでしょうか。
私としては本のある宿の方が好きですが、どの本がどのタイミングでその人の心の滋養になるのかは、当人でさえ分からないことが多いので、そうした状況から考えると、旅先でもいろいろな本に触れ親しむ機会と時間を増やすしかないと思います。
ということで、部屋に置くのが問題なら、いっそのことミニ図書室や読書コーナーをつくってしまうのはいかがでしょう。
やはり子どもの頃、山梨県の清里にある清泉寮に毎年1度は泊まりに行っておりました。
バブルの頃に清里は奇妙奇天烈な街になってしまいましたが、それ以前のかの地は人家もまばらなさびしい場所だったのです。
清泉寮も、今でこそきれいで立派になっていろいろ商売されていますが、わたしがいった当時は街灯もない牧場の坂道を延々とのぼっていったさきにある、古めかしく、山小屋のような匂いのする、ホテルというよりは山荘という雰囲気の宿泊施設でした。
私が清泉寮を気に入っていた理由は、部屋と食堂を結ぶ廊下に、図書室があったからです。
そこには大人用の書籍に交じって、子ども用の読み物や絵本もありました。
部屋に持っていって読んでも構わないのですが、その際にはフロントで図書館と同じように貸出しの手続きをするのです。
ポール・ラッシュ博士の理念に基づいて、学校も経営している聖公会(英国国教会)が運営しているホテルですから、そのような施設があったのかもしれません。
ただ、旅先の宿での読書し、あるいは親に読み聞かせをしてもらった経験は、宝物のように記憶に残っています。
いつだったかご紹介したブリティッシュヒルズなんて、まさに書籍萌え状態でしたし(笑)
本というのは管理が難しく、公開にあたっては図書館のように鞄などの持ち込みを制限しないと、どんどん散逸していってしまう事情は分かります。
それでも、本を読むスペースと本棚を備えた宿があって、そこに当地の文化や風土、地理や歴史の本が置いてあったりしたら、素敵だなと思うのです。
そんな大げさなものでなくても、○○文庫の100冊とか、日本文学全集やジュニア文学集などの古書でもよいと思います。
なるべく偏りのない本を集めればよいのではないでしょうか。
(マンガはそれだけが集結するとマンガ喫茶の雰囲気になってしまうので、どうしたものかと思いますが)
読書コーナーがロビーではなく、わりと奥まった静かな場所にあるような、本と旅というテーマの宿が増えていったらいいなと思うのでした。
だって、そこにブロンプトンを連れていったら、自分の足と頭を使って探索する旅になるではありませんか。
それに、新しく出会った著者の本を読むのは、はじめてブロンプトンで見知らぬ街を走りはじめるのに、驚くほど期待感が似ているのです。