今回に限り、綱島駅から日吉駅、元住吉方面へ逆方向に走る場合のルートをご案内しようと思います。
前回も説明しましたが、この区間に関してのみ、下りと上りのルートは地形的な制約があって違えたほうがよいと思いますので。
(それくらい下末吉台地へ南側からのぼるのは大変なのです)
駅の改札口を出たら左手東口から走り出します。
バスターミナル前をすぎ、つきあたりを右折して綱島街道を渡ります(35.537005,139.636083)。
もし日吉駅へ向かうのであれば、交差点から綱島街道を北進します。
綱島街道は歩道も車道も幅が狭く、人や車も多いので、できるだけ東横線の線路際を走るようにして最後はまた綱島街道に戻り、日吉駅の南側にある坂道をのぼって下さい。
日吉駅の南側で一番ゆるい坂が綱島街道なのです。
う回路に話を戻します。
綱島街道を横断する交差点の右角には、2015年まで綱島温泉で唯一生き残っていた、東京園という入浴施設がありました。
いまは鶴見川の向こうに湯けむりの庄という新たな施設が誕生しました。
東京園は昭和の雰囲気を残した立ち寄り湯だったのです。
そもそも綱島温泉は戦前からの温泉街です。
昭和の頃、駅には温泉旅館組合の看板に、ずらりと宿の名前が並んでおりました。
そのあたりのお話は、次回に譲るとして、そのまま進むと道は二手に分かれます(35.536568,139.637560)。
ここは左の道を選びます。
1.25㎞さきで左側に日大日吉高校(35.544744,139.647044)をみます。
さらに450m進むと新幹線の下をくぐります。
左手に見えているのが慶應大学のある丘で、新幹線はこの下をトンネルで貫いています。
左手に熊野神社(35.550056, 139.654399)がある先の交差点で少し戻って左折し、矢上川を渡ってみましょう。
八兵衛橋(35.549043, 139.657081)を渡り、その先で尻手黒川線を越えると、左手前方に丘が見えます。この丘の名前は夢見ヶ崎(35.549231, 139.665610)といいます。面白い名前ですよね。
正式には加瀬山(標高35m)といい、多摩川台同様に古墳群や貝塚がみつかっていますので、相当昔から人が生活していました。
縄文のむかしは低地部分が海または干潟だったため、ここは島のようになっていたのかもしれません。
夢見ヶ崎の夢の話をしましょう。
室町時代のこと、太田道灌は江戸に城を築く以前に、ここに築城しようと考えていたそうです。
ところが一羽の白鷺が彼の兜を掴んで南西の方向に飛び去る夢をみたため、ここに城を構えるのは不吉だとして断念したそうです。
ああ、何という夢でしょう。
もしここに道灌が城を造っていたら、後の世の皇居はここになっていたかも知れません。
そうしたら、新川崎駅は東京駅に、地元の日吉など今の半蔵門から四谷にかけてになり、綱島は青山に、元住吉は神楽坂のようになっていたかも知れないのに…。
都会コンプレックスむき出しなのでやめておきます。
いま、夢見ヶ崎は無料で入れる動物公園になっています。
上り口は南東側にあります。
よく見ると目が怖いのに仕草はかわいいレッサーパンダ、アフガニスタンあたりに住むマーコールというヤギ、シマウマにペンギン、フラミンゴと無料の割にはけっこう手のかかる動物がいます。
公園のど真ん中に熊野神社と浅間神社がありますが、前者は創建は天正(戦国時代)の頃なのでそれほど古くありません。
その先にラマ、シカ、ロバ、インコと続きます。
よほど暇なのか、写真を撮っている浪馬に対し、ロバが「かまってちゃん」状態でした。
中国の奥地でドンキーにはお世話になりましたが、ロバさん達は優しそうで物悲しい目をしていながら、実は結構気が強くて怒ると手に負えないのも見ていますので、お相手はほどほどで切り上げます。
さらに奥へ進むと天照大神の宮(35.549231, 139.665610)が。
由緒書きを読むと、「太田道灌公―瑞祥の夢見の社伝あり」。
えっ、瑞祥ってお目出度いという意味ですよね。
悪夢じゃなかったの?
その先の西面、北面は崖になっています。
西の向こうには矢上川をはさんで慶應大学の丘が見えます。
元住吉から日吉にかけてで書きましたが、矢上川は今のように鶴見川の水系に属したのは後になってからで、もともとは古多摩川の一部を構成していましたから、流路もこちらにはなく、夢見ヶ崎は日吉台に連なっていて、まさにここが東京湾に向けた岬の突端だったのだろうと思います。
北面側は、武蔵小杉や多摩川の向こう、大井町の高層マンション群が見えています。
ここにあった古墳は、白山古墳とよばれ、前方後円墳の形をしていたそうです。
4世紀後半に造られたと推定され、出土品やその形状から、畿内の勢力との結びつきが考えられています。
もしかしたら、道灌公はこうしたいにしえの人たちの生活跡にも留意して、ここでの城造りを断念したのかもしれません。
南西の方角へ兜をもって飛び去ったという白い鷺は、鬼門の方角からの圧迫を暗示しているようにもみえますし、その方角の先にあるのは皇居です。
やはり江戸に城を築かねばならない何らかの事情があったと考える方が自然です。
迂回路に戻ります。
矢上小学校入り口交差点(35.552401, 139.656932)に差し掛かります。
交差点を左折すれば、慶應大学理工学部の校舎や日吉神社の下を通り、仲の谷の交差点で綱島街道を渡り、東横線の線路をくぐった先で右折すれば、これまでご紹介してきたルートに復帰できます(地図参照)。
ただ、この回だけは渋谷方面への道をご紹介しているので、もっと合理的に元住吉へと向かいます。
交差点を直進し、矢上小学校の脇から矢上川の右岸に出ます。
このあたりの土手は未舗装の道が残っていたのですが、つい最近舗装されました。
昔は土手の上に野草がたくさん生えていました。
子どもたちがそこを自転車で走り回るものだから、あちこちに轍の跡筋がついていたものです。
なお、この地点が現在の下末吉台地の東端になります。
矢上川が東から南へと大きく流れを変える場所でもあり、北から二ヶ領用水が合流している地点でもあります。
地理マニアにとって、こういう場所は地図をみているとどうしても行って自分の目で確かめたくなります。
川沿いにブロンプトンを走らせると、北から西へと進路が変わりますが、新幹線の高架下の手前で人道橋があるので、これで矢上川を渡って折り返し、二ヶ領用水に沿って進みます。
尻手黒川線を石神橋交差点(35.557865, 139.658053)で渡ります。
左手にあるのが、真言宗の大楽寺です。
過去帳は江戸期からで、川崎大師があるために、この周囲は大師信仰が昔からあったそうです。
川崎七福神の布袋尊でもあります。
石神橋から新幹線の下をくぐり、そのまま桜並木の二ヶ領用水を進めば、やがて綱島街道をと交差して元住吉駅に突き当たります。