今川町交差点から旧道をゆくと、左手の国道との間にいかにも昭和の香りを残す健康センターとボーリング場があったのですが、前者は2015年3月にて閉店してしまいました。
うう、こうなったら大名古屋温泉(車窓マニアなら知る人ぞ知る)に期待するしかないと思ったら、あちらは2014年3月に閉店。
こうして昭和の香りがひとつひとつ消えてゆくわけです。
ああ、旧道と全然関係ないですね。
今川町交差点から670m西へいったところで、境川を渡ります。
橋の名前は境橋。(35.037921, 137.013568)
ここが三河の国と尾張の国の境ですって、橋の名前がそのままです。
(境橋)これまで旧東海道は境川を四度渡ってきました。
ひとつ目が、藤沢宿の遊行寺門前の遊行寺橋(35.346289, 139.486746)です。
この境川は上流部が武蔵の国(東京都)と相模の国(神奈川県)の境になっています。
二つ目は三島宿の西、境川橋(35.115633, 138.904887)にて渡った小さな流れで、こちらは伊豆の国と駿河の国の境でした。
三つ目が白須賀宿の西のはずれ、ここもまた名もない小さな橋(34.695184,137.490787)で遠江の国から三河の国に入りました。
そして今回で4度目です。
尾張と三河って風土も人の気質も全然違うとたびたび書いてきました。
前者は豪華絢爛、後者は質実剛健ってよく言われますけれど、こんな小さな川で境を接しているのです。
でも、これまで渡ってきた境川の国境部分は全てにおいて、細い流れです。
ということは、この名のつく川境というのは、水利権などある程度人為的に引かれた性格のものが多いのかもしれません。
(国道1号線に復帰)境川を渡ってまもなく、旧東海道は伊勢湾自動車道の高架下で国道1号線に突き当たります。(35.039807, 137.010838)
ここは横断できませんから、とりあえず西へ向かって右側の歩道をすすみ、100m先の豊明駅東交差点(35.040547, 137.010015)で国道を横断して左側の歩道を西へ進みましょう。
豊明駅東交差点から名古屋方面へ、国道1号線は2車線になります。
歩道が狭くなった分、自転車は車道を走ることになりますが、交通量は多いので後ろからくる車には十分注意して進んでください。
国道に戻ってから240m先の豊明駅交差点(35.041526, 137.009025)で左折すれば、すぐに豊明駅前に出ます。
豊明駅は夕方16時台から夜にかけて、30分に1本くらいの割合で、各駅停車か準急ながら、名古屋方面への始発列車があります。
ここから名駅までは各駅でも30分ほどですので、この付近で時間切れを迎えた場合は、豊明駅から始発に乗って座って帰ることをお勧めします。
豊明駅前を過ぎ、国道1号線を西へ向かいます。
名四バイパスが分岐した後の国道1号線は、上下2車線となり車の数も、前回ご紹介した逢妻町から一里山にかけて付近よりはだいぶ減りますが、それでも交通量が少ないとはいえませんので、左側の歩道を注意して走りましょう。
豊明駅前交差点から380mゆるい坂をくだり、境川の支流である正戸川を渡ります。
そこから120m先がY字(35.046262, 137.004989)になっており、斜め左に入ってゆくのが旧東海道です。
愛知県道57号(瀬戸大府)線の陸橋をくぐり、ゆるいのぼりにかかった先にあるのが、阿野一里塚です。
左右両側に塚が残っている珍しい一里塚です。
(旧東海道は左へ)(阿野一里塚)
さらに西へ豊明小学校脇の坂をのぼり切ったところが、前後駅前交差点(35.052447,136.996890)になります。
前後なんて、面白い駅名ですね。
ちなみに左右駅はありませんが、上下駅は広島県に存在します。
前後駅の名前由来の一説には、桶狭間の戦いで敗れた今川方の首が前後に散乱していたとか、天秤棒で前後に担いで運んだとか、何やら血なまぐさい話が含まれています。
そう、この辺りは桶狭間古戦場が近いのです。
わたしたちは、東から尾張名古屋を目指しているわけですから、当時の今川方の軍勢と同じ動きをしているわけです。
史料から考えると、記録され残るのは勝者の歴史ですから、日本史を習う際に桶狭間の戦いを調べると、織田方の軍勢の動きは詳細にわかるものの、今川方の動きというのはあまり細かくは分かりません。
桶狭間の戦いは、言わずと知れた日本三大奇襲にも数えられる歴史のターニングポイントです。
1560年6月12日(永禄3年5月19日)を「いまごろおどろく今川勢」なんて覚えた方もいらっしゃるかもしれません。
もしこの時に信長が首尾よく今川義元の本陣を突くことができず、大将を取り逃がしてしまっていたら、のちの歴史は大きく変わっていたでしょうから。
1560年といえば、まだ江戸幕府によって東海道が整備される前の話ですし、その時代の東海道がどこを走っていたのか、さらには25,000から45,000とも伝えられる今川軍がなぜ、どのように西へ侵攻したのかさえはっきりしないのです。
(自分が学習したのは京に上って室町幕府にとって代わって政権を握るというものですが、江戸時代後期の資料によるものです)
ということで、それ以降の詳細はこの後に登場する桶狭間古戦場跡にゆずるとして、豊明市内にもここが古戦場の跡ではないかといわれる場所があります。
(戦人塚;かなり高台にあります)前後駅前交差点から、旧東海道は下りにかかります。
谷間におりてゆくような感じで460m進むと、右手に豊明市のコミュニティバスの停留所、五軒屋バス停がありますので、その先の細い路地を右折します(35.055044, 136.992960)。
谷間の右(北)側の斜面を直登するようなかたちで路地をのぼってゆきます。
国道1号線を仙人塚団地入口信号(35.055567,136.993850)で渡って(横断歩道あり)、そのままのぼってゆき、道なりに左折したさきの滑り止めのついた急坂を登りきるとあるのが戦人塚(35.056982, 136.995491)です。
前後駅の南に位置する曹源寺の快翁和尚が、桶狭間の戦いで戦死した今川方の将兵を埋葬したここは千人塚ともいわれ、その昔は駿河塚と称されていました。
ここより旧東海道をはさんで向かい側の丘にあった紺屋の菱谷善吉が江戸時代後期に歌った句碑が残っています。
『五月雨に 法の衣や志ほるらん しのふ昔のミいくさのあと』
毎年戦のあった日と同日に行われる法要の、物悲しい雰囲気を歌っています。
しかし、実際に旧東海道から標高差20m以上の丘の上までのぼってくると、戦のあったという窪地からここまで、何百人もの遺体を本当に運んできたのだろうかと疑いたくなります。
戦のあったとされる地域を俯瞰するにはもってこいの場所ですがね。
(戦人塚から旧東海道の谷間を見下ろす)谷間の旧東海道に戻りましょう。
道は皆瀬川の谷間を上流に向かって遡ってゆく形になります。
左手には名鉄本線が並行しています。
前後駅前交差点から1.5㎞で旧東海道は国道1号線に合流します。
国道1号に出てすぐ競馬場入口交差点(35.061020,136.982773)に出て、名鉄線のガードをくぐります。
交差点の右奥には、中京競馬場前駅が見えています。
交差点を右折して600mもゆくと、突き当りが中京競馬場の正門(35.064940, 136.986579)になります。
重賞の最上格、GⅠレースは高松宮記念(3月)とチャンピオンズカップ(直近の3年;11月)がここで行われます。
(競馬場入口交差点付近)競馬場入口交差点から国道1号線を西へ180mゆくと、左側に病院のある次の信号に大きく「右矢印;桶狭間古戦場100m」の標識が出ています。
右折して80mの場所が、豊明市にある桶狭間古戦場伝説地(35.059996, 136.980772)です。
次回はこの古戦場跡地から続けたいと思います。
旧東海道ルート図(知立駅入口~金山駅入口)http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=451c126d388a124117f3f8b94d995a6f&mode=silver