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遠藤周作「沈黙」を読み返して(その2)―日本人にとっての宗教とは―

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と、大上段に構えてしまいましたが、最近近所を散歩していてこのブログを書くために、あるいは信仰やお手伝いのために、教会やお寺、神社へ行って、いつも同じことを考えているのです。
というわけで、素人は素人なりに考えてみたことを書き留めておこうと思います。
 
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歴史の中に埋もれていった弱者の悲しみや苦しみに耳を傾け、彼らを復活させたいと著者が考えたことが、この小説の動機でありテーマであると前回は書きました。
そして、物語に出てくる登場人物は、大なり小なりみな弱さを抱えている人間であるとも。
小説を読む限り、拷問や殉教の描写は抑制がかかっており、また棄教を迫る側も、主人公に対しては理趣深く説得しています。
しかし、逆にそれが残酷かつ陰惨な現実を示しているようにも感じとれます。
人物描写に限れば、弾圧する側の頭である井上筑後守ですら、「私はキリスト教が邪教だとは思わない、ただ今の日本に布教はありがた迷惑なだけだ、自分は(職務上)仕方なく無辜の民を拷問、処刑し、(主人公に対して)棄教を迫っている」と話しています。
また、処刑される人間は、そうした役割を引き受けているかのような従順さで、苦しみもがきながらも死んでゆき、転んで(棄教して)しまう人間も、運命を嘆きつつもしかたなく受け容れているように感じます。
つまり、主人公のロドリゴ神父以外が、各自与えられた役割をこなしているみたいに見え、誇張した言い方をすれば、芝居がかっているような生き方や死にざまをみせているのです。
そして、主人公もまた自分勝手な信仰へのヒロイズムのために、既に棄教を約したにもかかわらず、拷問を受け処刑されてゆく百姓を目の前に、神の沈黙を呪い、揺らいでゆくのです。
 
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そうした状況の中で、主人公よりも先に日本にわたり、潜伏し布教しながらも捕らえられ、穴吊りという拷問にかけられて棄教したフェレイラ(もと)神父の次の言葉が引っかかります。
「彼等が信じていたのは基督教ではない。日本人は今日まで(中略)神の概念はもたなかったし、これからも持てないだろう」
「日本人は、人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」
(遠藤周作著「沈黙」より)
そして、日本に根を下ろしたかに見えたキリスト教は、実は根を腐らせており、日本人が信じる神とは、蜘蛛の巣に引っかかった蝶の死骸と同じで、外形だけ神らしくみせながら、既に実体を失っているとまで言わしめているのです。
 
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私はこれまで、周作先生のこの表現は流行にのったにわか信者のことを指しているのだと考えていました。
秀吉のバテレン追放令の直前、日本のキリシタンは30万人を数え、各地に教会堂が建てられたことはもちろん、安土と島原にはセミナリオと呼ばれる神学校まであったといいます。
それが為政者側の処刑を伴う弾圧にあったとはいえ、わずかな期間に潮が引くように信者が消えて、長崎の一部と五島にのみ細々と潜伏したというのでは、大半が何らかの利益を求めて入信した人たちであって、自身に害が及ぶと知れば、即座に捨てるという性格の信仰だったのだろうと推し量っていたのです。
ただ、自分だって仮に「信仰を捨てねば家族を皆殺しにする」と言われ、続けて「形式だけでいいから」と飴と鞭を使って迫られれば、簡単に踏み絵に応じてしまうことでしょう。
だから、その時代の棄教した人たちを責める資格は私にはありません。
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ただ、今回読み直してみて、この小説で殉教者とされた、いわゆる強者の側にも、全員が全員、本当の信仰心から命を捨てたのだろうかという疑念が湧きました。
たとえば、隠れキリシタンとして生きてきた以上、「転んだのちの人生など、他者から無視され、蔑まれながら生き地獄のような余生を送るくらいなら、いっそのことここでひとおもいに殺されて死んだ方がマシだ」とか「生きるのは辛いから、死んでパライソ(天国)の寺に参ろうや」(それでは「厭離穢土 欣求浄土」と全く同じです)と考え、従順に死んでいったひとがいたとしたら、その人は本当に神に自己の命を捧げるつもりで死んだのとは少し違うのではないかと思ったのです。
少なくとも、キリストが十字架にかけられた状況とは全く異なります。
これまでその辺りの事情は他人事で済ませてこれたのですが、自分が洗礼を受けてからは、「それならば、本当の信仰とはいったい何だろう」と真剣に考える契機になりました。
すると、この小説での鍵となる人物はキチジローのような気がしてきました。
10代に読んだ際には、ただの「ヘタレ」にしか思えなかった彼が、読み直すたびにどんどん大きくなっていったのは、彼に共感する部分が多くなっていったことのほかに、彼こそ実はもっとも神から愛されている存在ではないかと感じるようになったからです。
 
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キリシタンの弾圧がモチーフになっているから、わかりにくいかもしれませんが、例えば学校でいじめにあって自ら命を断とうとしている子どもに置き換えてみます。
自分だったら、「死を選ぶくらいなら、不登校児になりなさい」とその子どもに向って言えるかなと思うのです。
(結果的にそう言っておけば良かったと思うことはあっても、悩んでいる子どもに対し、禁忌である「ガンバレ」とか「負けるな」という言葉がけをせず、そのように言える大人って、なかなかいないと思います)
または、会社でハラスメントに遭って悩んだり、長時間残業で抜け殻のようになったりしている人に対し、「死ぬくらいなら会社を辞めちゃえば」なんて言ったら、あとでどんな責任を負わされるか分からないと躊躇しますよね。
しかし反対に、「自殺するくらいなら、(学校や仕事を)辞めてしまえばよかったのに」というのも無責任な物言いだと思うのです。
本人がどれくらい苦しんでいたかは、当人以外には分かりませんから。
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そこで、小説の結末と神の沈黙の意味が活きてくる気がしました。
主人公のロドリゴは、踏み絵に足を掛ける刹那、次のように絵のキリストと会話しています。
(踏むがいい。お前の足は今痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけで充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙しているしているのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
(中略)
「強い者も弱い者もいないのだ。強い者より弱いものが苦しまなかったと誰が断言できよう」
(遠藤周作著「沈黙」より)
 
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(文京区小日向のあたり)

それを敵役である井上筑後守やフェレイラは「自分の弱さを糊塗するための弁解だ」とばっさり切り捨てていますが、ロドリゴに対するようなゆるしを与えられるのは、人間を超えた存在以外にないと本を読んでいて思うのです。
作家の加賀乙彦先生は、「遠藤さんは日本人に受け容れやすい、やさしいイエス、無力なイエスを描いたことで色々意見を言われたけれども、本人はまったく意に介していなかった」と言っておられました。
ただ、私なりによくよく考えてみても、キリストもまた、そこにいたら転んだ人たちをゆるしたに違いないと思うのです。
新約聖書の四福音書において、誰一人として「一緒に捕まって処刑されよう」なんて、堅気なところをみせた弟子はいなかった(むしろみんな逃げてしまった)わけで、彼の逮捕から死までの個所を読んでも、そうした弟子たちに対し恨み言は一切言っていませんから。
そして、命を犠牲にしてまでも神を信じなければならないという考えは、とくに日本人にとっては「滅私」につながりやすく、主君のため、国のために死を賭した人々がいた過去や、自殺者が突出して多い現代にも、周作先生流の表現で警鐘を鳴らしているのだと思います。
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最後に気になるのは、「主人公のその後」です。
小説ではパードレ・ロドリゴが転んだあたりでほぼ終了し、つづいて「切支丹屋敷役人日記」として、その後の動向について淡々と触れています。
これは、実在の日誌をもとにした周作先生の創作だと思うのですが、当時の文体を用いており、人物もたくさん登場するので、たいへん理解しづらいのです。
私はこれまで日記部分をさらりと読むだけにしていたのですが、今回は丁寧に解読してみました。
彼は転んだのち、岡田三右衛門という死罪になった男の名をもらい、神父としては許されない妻を娶り、生涯切支丹屋敷に軟禁されながら洋書翻訳の仕事を与えられています。
「拾人扶持」という彼の身分を表す表現は、10人の奉公人を置くことを許すという意味ですから、名字を名乗り(帯刀は許されなかったとしても)武士に準じる待遇だったのでしょう。
そして、奉公人の中にキチジローを雇っています。
ということは、主人公は自分を売った相手を許しているということになると思います。
ただこのキチジロー、監視役兼世話役の役人と思しき同心夫婦と親しくして、当局がその同心夫婦を怪しいとにらんで拷問にかけたのちに処刑するなど、何かと問題を起しているようです。
いっぽうで、キリシタンを疑われるような装身具を隠し持っていることが露見したときは「拾ったもので、断じて元神父からもらったものではない」と主人公を庇っています。
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(映画は台湾で撮影されたってきいていますが、小説の舞台外海はとても美しい場所です)
 
また、フェレイラ神父は、転んだあと沢野忠庵という名字を名乗り、こちらも妻帯して医学や天文学を日本人に教えながら、官憲から強制され、「顕偽録」なる書物を書かされています。
「顕偽録」は今風にいえば「キリスト教の矛盾」とか「ここがヘンだよキリスト教」という、いわゆるアンチ本の類です。
しかし、これも前出の「一枚の踏み絵から」に周作先生が書いていましたが、儒者たちと共著のような形をとりつつあくまでも強制されて書いた文章で、彼の諦めと悲しみがあちこちにあらわれているそうです。
(興味のある方は現代思潮社から出ていて入手可能です)
なお、もし日誌中に登場する「寿庵」が「忠庵」つまりフェレイラのことを指すのであれば、彼は再度キリスト教を信仰していることを告白し、自ら入獄したことになっています。
 
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いっぽう、主人公のロドリゴは、逮捕され、棄教してから37年間を日本で過ごし、64歳で病死したことになっています。
この2人のうち、フェレイラ神父は実在の人物で、クリストヴァン・フェレイラ(1580-1650)といい、棄教後の日本名も沢野忠庵で間違いありません。
いっぽう主人公セバスチャン・ロドリゴ(作中ではポルトガル人宣教師)のモデルは、イタリア人のイエズス会宣教師ジュセッペ・キアラ(1602-1685)です。
彼は、改宗後に岡本三右衛門(作中では岡田姓)を名乗っています。
異説はあるものの、作中の2人は、モデルになった2人の「転びバテレン」の人生とだいたい符合しています。
まだ映画を観ていないので確証は持てないのですが、映画の結末は小説とは違うそうで、このあたりがどうなっていることやら…。
そこを確認したくて観に行ってしまいそうです。
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(谷中のあたり)
 
次回は東京に残る二人の足跡をご紹介して、このシリーズを終わりにしたいと思います。

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