緑道は日吉地区センターから2,100mの地点で終わっています(35.555668, 139.623927)。
つまり松の川はここから下流は遊歩道になっているわけですが、出たところの道を右折して西へ向かうと、道の歩道沿って暗渠が続いているので、さらに上流方向へと川をたどることができます。
神田川のところでも書きましたが、流域を探索するにはまず河川をたどることです。
松の川自体は総延長が5㎞にも満たない小さな流れですが、これより南の鶴見川や雉子川水系における谷戸のミニチュアみたいな存在です。
そして川の両側に連なる尾根まで探索すれば、その流域のことはだいたいわかるようになります。
松の川の上流部は市街化調整区域に指定されていて、畑が広がっているため、地形を読むのにはもってこいです。
今回松の川を取り上げた理由は、もう一つあります。
この緑道が終わる地点で川は右折していると申し上げました。
しかしよく見ると正面にも水路のようなものが続いている気がします。
しかし、その先は崖になって南側へと地形が落ちこんでいるのです。
上流から流れてきた川がここでふたまたに分かれているというのはどういうことでしょう。
実は、この地点で河川争奪の疑いがあるのです。
「河川争奪」とは、浸食や地震による断層活動、火山の噴火による噴出物の流入などによって、川が従来の流路を変えて、別の川に流れ込む現象のことです。
流域を他の川が奪うから争奪と呼んでいます。
名前だけ聞くと、昔の水利権争いのようです。
この河川争奪、都内での有名どころでは石神井川下流と谷田川の関係や、矢沢川における等々力渓谷の存在が河川争奪によるのではないかといわれています。
地形図を見ますと確かにこの部分は南側の尾根が切れていて、松の川が日吉方面を経て矢上川へとは向かわず、高田町駅方面の早淵川へと流路を変えているようにも見えます(黄色い円の部分)。
なお、日吉駅付近で松の川が急に左(北)へ向きを変えているのではないかという場所(クリーム色の円の部分)があります。
こちらは東横線の敷設時に人為的に尾根を開削してできた切通しですから、こういう場合は河川争奪とはいわないのです。
なお、現代の松の川は氾濫を繰り返したために、慶應大学の野球グランドとサッカーグランドの間から川崎市立井田病院の下を抜ける導水管を地中に掘り、そこで水を矢上川に逃がしています。
さて、松の川の上流へと前に南側の路地に入って興禅寺(天台宗)と、高田天満宮に寄ってゆきましょう。
興禅寺(35.555463, 139.620896)は開山が853年と相当に古く、江戸期には安産のお守りとして信仰を集めてきました。
明治初期には裏手の高田小学校の前身となった寺子屋の高田学舎が開かれて、近隣の子とどもたちが学んだといいます。
戦後に制定された横浜七福神の福禄寿のお寺としても知られ、七福神めぐりの一番北にあるために、スタート地点にもなっています。
お寺の門前両脇には石造りの金剛力士像が一対立っています。
仁王様の名で親しまれているこの像は、仏敵が寺院内に侵入するのを防いでいるのだそうです。
ところで、これら仁王像はなぜそれぞれが阿吽(あうん)の形相をしているかご存知ですか。
梅原猛先生によると、サンクスリット語(いわゆる梵字)は51字あって、その始めが阿字であり、最後の文字が吽字であることから、もののはじまりと終わりをあらわしているのだそうです。
密教においては阿字観といって、一切のものがそこから生まれ、いっさいのものがそこに帰する根源的存在を観想することによって、小さなことにとらわれて悩み苦しんでいる私たちの心の執着を断ち、代わりにそのような根源的なものと一体化させようという観行なのだそうな。
それにしても、いくら仏敵を追い払うからといって、ここまで怒りの表情をデフォルメしなくてもいいのに。
またお寺の前にある剣道、弓道の道場(自彊館)は、あの半沢直樹のロケ地でした。
大阪に赴任している際に通っている剣道場という設定だったのですが、あのドラマ大半が横浜市内や川崎市内で撮影されていて、唐突に近所が出てくるものだから、自分としては少し興ざめでした。
原作者が慶應出身ということで、三田ネタ、日吉ネタが出てくるのです。
「ヒヨウラ」という言葉は慶大生は使うかもしれませんが、地元民は使いません。
だって駅前の商店街からすれば、大学側こそ裏ですからね。
大学の図書館も地域には開放していないし、公開講座にでも申し込まない限り用事がないのです。
(外国語講座があって、ヘタな語学学校顔負けなのは知っています)
興禅寺前の坂をのぼりきった交差点を左折すると、高田天満宮の裏手に出ます。
この神社のいわれはSF小説のようです。
1325年5月ですから鎌倉時代の末期のことです。
空から光る物体が現れてこの山におりてきて震動し、あたり一面光る物体が昼も夜も乱れ飛んだため、村人たちは近づくことができないでいました。
やがて梅の若木の下に小さな蛇が現れて、かわった匂いを放ったので、興禅寺の和尚が「これは観音さまが姿を変えて現れたに違いないと、蛇の前に榊の枝を置くと、蛇はその枝の上にとまったため、時の領主桃井直常が信心してこの地にお堂をたて、やがてこのあたり一帯の鎮守になったということです。
「おいおいその蛇のようなものは遊星からの物体何とやらで、宇宙人と違いますか?」などと突っ込みたくなります。
神社は相当の高台にあって、裏手の南側は新横浜のプリンスホテルやランドマークタワーまで見通すことができます。
なお、関東地方には珍しく「高田」の読みは通販会社と同じ「たかた」であって「たかだ」と語尾が濁りません。
これより西に「勝田」の地名があって、読みは「かちだ」なのとは対照的です。
松の川に戻って暗渠上の歩道を上流へ向かいましょう。
畑の中の谷戸をたどると、両側の丘陵の様子がよくわかります。
この畑の中にはモーツァルトを聴かせて育てた鶏に卵を産ませている養鶏場の前にある卵の自販機とか、夏の一時だけ浜なしの直売を行う果樹園があったりするのですが、ネットにも載っていません。
(実は本ブログでブロンプトン周りの製品の説明写真を撮影するときは、この畑の中で行っています)
人が押し寄せるとあっという間に品切れになってしまいそうなので(現に梨は販売日の1時間くらいで売り切れてしまうときいています)、そういう農家があるということだけご紹介して、あとはブロンプトンでここまで走ってきて確かめてください。
なお市街化調整区域の畑の中には野菜の無人販売所もあります。
そう、お金を箱に入れて商品を購入するアレです。
外国人観光客は「日本人はすごい、誰も見ていなくてもちゃんとお金を置いてゆく」といいます。
しかし、最近は事情が変わってきているようで、無人販売所の脇に「ちゃんとお金を支払ってください」とか「防犯カメラ監視中」などの看板を見かけるようになりました。
拾った財布をそのまま届けるというのも同じことだと思うのですが、なぜ誰も見ていなくてもきちんとお代を支払うかといえば、「金を払わないで商品をネコババして、得したなどと喜んでいるようなイカレた頭の持ち主だけにはなりたくない」という心理がはたらいていると思うのです。
そんなお金を使ったところで、幸せにはなれないということを、その人が知っているからではないでしょうか。
私は野菜の無人販売所や財布が中身を抜かれずに戻ってくることを指して、日本人はすごいだの、日本は美しいとかおだてるのは、買いかぶりもいいところだと思います。
たとえば自分の自転車を盗まれた経験のある人なら、かりに他人の自転車を盗んで乗り回したとして、何にも感じないわけがないと思うのです。
他人の自転車を奪って、乗り回していて平気でいるとしたら、おそらく自分の持ち物にも愛情を感じていないということではないでしょうか。
それと同じで、無人の野菜販売所から大根やキュウリを盗んで料理をつくっても、まともな人間なら美味しく食べられるはずがないと考えます。
それを「得した、美味い」といって食べられるとしたら、かなり感覚が麻痺しているという点において、その人はすでに罰が当たっている気がします。
人にされたら嫌なことを平気でやっておいて、自分がハラスメントをしていること自体に気づけない哀れな人と同じことです。
それに他人の物を盗んだりかすめ取ったりしないというのは、偉いことでも美しいことでもなく、当たり前のことです。
それを日本人は道徳心に篤いからとか、小さい時からの教育が云々なんて自画自賛するなんて、どうかしています。
どんなに道徳心にあふれていようが、人間は目前に餓死の恐怖があったら、他人の物を奪ってでも食べようとするでしょう。
そういう人に、道徳心がどうの、日本人の精神がどうのなどとお説教しても、ナンセンスです。
事実戦後の生きるのに精いっぱいの時代は、野菜泥棒なんて珍しくもなんともなかったといいます。
なお、ゴミを拾う日本人(に限らず、落ちているごみを片付けるのは素晴らしいことだと思いますが)という賞賛話にもうんざりしています。
この区域には昔から不法投棄が多く、住んでいる人たちが困っています。
ぼんやり自転車で走っていると、警告の音声テープが自動で流れたりします。
ぼんやり自転車で走っていると、警告の音声テープが自動で流れたりします。
拾う人がいる一方で、捨てる人がいるというのが事実で、それを賞賛したり怒ってみたりしたところで、あまり意味がないと思います。
あれれ、無人の野菜販売所を眺めて何を思っているのでしょう。
歩道が切れた場所で右手(左岸・北側)の丘の上に登ってみましょう。
秋から冬にかけては丹沢の山並みの向こうに見事に富士山が眺望できます。
多摩川駅近くの八幡神社から川越しに遠望する富士も見事でしたが、このように台地の上から眺める富士も、ここから西へと続く南関東の丘陵を手前に見ることができるので、広がりを感じることができます。
今でこそ、家やマンションが建っていてこのような景色はなかなか見ることはできないのですが、武蔵野台地でも、下末吉台地でも、丘の上からはこのような風景はわりとあちこちで見えたに違いありません。
日吉駅へは松の川緑道を再び下ってゆきましょう。
緩やかな下り坂ですから、行きより帰りの方が楽だと思います。
または、先ほど河川争奪の話をした場所から、神奈川県道106号子母口綱島線を下ってゆき、高田町駅を通り越して早淵川の土手に出て、下流に向って走ってゆけば綱島駅近くの大綱橋へ出ることも可能です。
今回は自分の地元ということもあって、贔屓にならないようさらりと触れるだけにしようかと思っていたのですが、結局長くなってしまいました。
次回は日吉駅から綱島駅へと向かいます。