日吉駅は関東の駅100選に選ばれています(第3回選定1999年)。
横浜市営地下鉄グリーンラインが(終着駅として)乗り入れ、目黒線の終着駅になっていますから、東横線では渋谷、横浜、中目黒、武蔵小杉に次いで第5位の乗降客数を誇ります(2015年度)。
駅前の由来は、前回ご紹介した日吉神社からこの付近が日吉村だったことによります。
慶應義塾大学日吉キャンパスが駅の目の前(東口)にあることで有名ですが、慶應予科は戦前からあり、戦中は海軍に、戦後は米軍に接収されていたそうです。
今は駅ビルと一体化した半地下駅ですが、もともとは掘割のうえの橋上駅でした。
前の東京オリンピック(1964年)の年に、日比谷線が東横線と相互直通運転を開始し、日吉が折り返し駅になりました。
当時東京の地下鉄は、銀座線、丸ノ内線、都営浅草線、日比谷線しかなく(暮れになって東西線が一部開業)、直通運転は非常に珍しい存在でした。
霞が関でも銀座でも、始発で座ってゆけるというのは通勤に買い物に、大きなアドバンテージだったろうと思います。
今でこそ日吉は「いいところですね」なんて言われていますが、私の子どもの頃は(横浜市)「港北区のチベット」などと揶揄されていました。
まだ港北区が現在の緑区、青葉区、都筑区と分離する前は、区自体が「横浜のチベット」などと言われていましたので、これからご紹介する日吉から西の奥へ入った地域は「チベットの三乗」なんて自嘲していました。
いえ、決してチベットをバカにしているわけではありません。
私自身はチベットに西方浄土のイメージを重ねています。
日吉界隈の電話番号が044だったことも影響しているかもしれません。
きくところによると、戦中に慶應大学が海軍に接収されていた時期に、秘匿性を高めるため特別に交換局を置いたからだといいます。
おかしなことに、横浜市内から掛けるときにも、同じ044の川崎市内から掛けるときにも、頭に044をつけないとつながらなかったのです。
市外局番なしでかけられるのは、家の近所だけ・・・。
しかも044の後は2桁-4桁で電話番号の桁数が合計9桁しかなく、「一桁足りない電話番号」として、知らない人からは訝しがられておりました。
地上部にあるメインの改札を出ると、通称銀玉(正しくは虚球自像といい、五感を感じる穴が開いています)が天井の高いコーンコースにデンと控えています。
改札を背にして右の東口をみると、綱島街道の向こうに慶應日吉キャンパスの銀杏並木がまっすぐ伸びています。
慶應大学の校内は広いのですが、自転車で中へ入っても向こう側はすべて階段ですから通り抜けができません。
ゆえに今回は逆の西口方面を散策してみましょう。
日吉駅西口も、田園調布駅西口同様放射状道路が広がっています。
ただしこちらは高級住宅街ではなく、雑多な商店街です。
渋谷寄りからサンロード、浜銀通り、中央通り、普通部通りに最後は名無しの道の五本。
このような放射状の道は、進むべき道を間違えるとあさっての方角へ行ってしまうため、初めての人には迷いやすい反面、お散歩マニアにとってはよい地図読みの練習になります。
道間違えると、台地から坂を下ってしまうのです。
前回、日吉駅は下末吉台地の頂上、掘割の中にあると書きました。
東横線沿線を渋谷方面から走ってくると、渋谷から多摩川まではすべて武蔵野台地の凸凹を自転車で南北に抜けることになります。
そして多摩川を渡り、その流域平野を抜けて下末吉台地に最初に出会うのが、元住吉から日吉にかけての上り坂ということになります。
東京テレインマップの段彩陰影図をみると、武蔵野台地と下末吉台地では明らかに地形の様子が異なります。
武蔵野台地が台地上はわりと平らで広々としているのに対し、下末吉台地は台地上がかなり狭く切り立っており、また標高も高く、そこへあらゆる方向から不規則に大小の谷が浸食しています。
ですから、下末吉台地の方が武蔵野台地よりも地形が複雑な分、ブロンプトンで走りやすくかつ上り下りしやすい道を見つけるのには、かなり苦労することになります。
今回は下末吉台地の間に刻まれた谷戸について、ブロンプトンを使って探索してみましょう。
ということで、放射状に延びた道のうち、唯一坂を下ることのない中央通りを進みます。
330mさきで直線が終わってのち、斜め左に折れて90m先三本目の路地を右折し、140m坂を下ったら、右側にあるのが日吉地区センターです。
ここまで、地図を見ずに上記説明だけでたどり着けたなら、大した勘だと思います。
この地区センター前から西へ伸びるのが松の川緑道です。
松の川は前回渡った矢上川の支流で、下末吉台地上に刻まれた谷を流れています。
この川はコンパクトな谷間の中に谷戸の特徴がぎゅっと詰まっていますので、地形を読む練習をするのにはもってこいです。
また、以前遡った神田川のように、武蔵野台地を刻む谷とはだいぶ様相が違いますので、その点も観察してみましょう。
谷戸の規模的には、以前ご紹介した目黒川の支流にあたる羅漢寺川や谷戸前川と同じくらいです。
日吉地区センターからしばらくの間は、松の川右岸の段丘崖がすぐ南側に迫り、ビオトープを残した遊歩道を進みます。
400メートル先で視界が開けると、慶應大学のグランドの縁を緑道は進みます。
ラグビー、サッカー、野球とそれぞれのグランドに沿って進むのですが、ところどころベンチが設けられています。
それぞれの練習試合の季節には、ここでお目当ての選手を観戦する人たちが鈴なりになっていたりします。
また、サッカーグランドから野球場にかけては桜がたくさん植えてあり、春にはお花見の人たちでにぎわいます。
今の季節(冬)なら、サッカーやラグビーのグランドがにぎやかです。
このように広いグランドを設けられるという点で、武蔵野台地の谷戸と違って、割と谷間の底幅が広いわけです。
羅漢寺川や谷戸前川の谷は、もっとV字に近くて両側の崖線が迫っている感じがしましたが、対する松の川の谷戸はU字の底辺が広いイメージです。
地区センターから900メートル付近で慶應大学グランドの敷地から出て、緑道はまたもや住宅街の中を進みます。
緑道は地域の人たちが定期的に手をいれて管理しています。
あくまでも歩行者優先なので、自転車で走る際はゆっくりそっと走ってください。
グランドの先の路地を右手へ入ってゆき、下田地蔵尊(真福寺)脇の松の川の支流の谷戸に入って行った場所にあるのが、日吉の森庭園美術館です。
ここは江戸期から続く旧家の古民家と、彫刻家の作品が展示されています。
庭園美術館の名の通り、お庭も見事です。
庭には回遊できる散策路があるほどです。
支谷戸に残されたお屋敷林といい、真福寺と合わせてこの付近の自然が残っているので、開発前の雰囲気を偲ぶことができます。
ふたたび緑道に戻って上流を目指しましょう。
やはり崖線が右岸(進行方向左側)に迫っていますが、都市化で都区部同様家や集合住宅がびっしりと建っています。
日吉地区センターから1,200mほどで、「鎌倉街道・駒が橋」という石碑が建っている辻に出ます。
松の川を南北に横切っているのが鎌倉街道(下道)です。
ここには駒が橋という橋が架かっていて、その名のいわれは頼朝が渡る際に橋が大雨で落ちてしまっていて、馬をつないで渡河したからといわれています。
小さな谷戸の小さな流れの松の川も、実は氾濫を繰り返す川で、だから谷戸の底がこれだけ幅広なのかもしれません。
南側は、松の川の右岸の尾根を越えて駒林の里に至り、綱島付近から旧綱島街道に沿って菊名へ出て、そこからやや西側の横浜市営地下鉄ブルーラインに沿って南下して、三ツ沢から保土ヶ谷へ抜けています。
北側はやはり松の川左岸の尾根を越えて川崎市側へ下ります。
その先で下末吉台地の北辺に沿って西北の溝ノ口方面へと進む稲毛道を分け、武蔵中原駅近くにある大戸神社のあたりから中原街道を北上し、丸子の渡しに至ります。
その頃のお話をチラッと丸子橋のところでいたしました。
さらに松の川を西へとさかのぼります。
日吉地区センターから1,900mの地点で神奈川県道106号子母口綱島線を渡ります。
そこから先はこれまでたてこんだ住宅地の中から突然畑の中の遊歩道に様子が一変します。
これは市街化調整区域に入ったからで、ここから先は開発が極力抑えられている地域なのです。
不動産業界にとっては切歯扼腕ものかもしれませんが、こうして昔の風情をとどめた地域を残しておいてもらえることは、お散歩マニアにとってはありがたいことです。
これよりさらに西の横浜市域には港北ニュータウンが広がりその中にも公園として昔の丘陵や谷戸が残されている部分があるのですが、こちらの市街化調整区域よりはやや人為的な感じ(要するにわざとらしい)がします。
しかもあちらは公園の中ですから生活感が全くないのも、白々しさに拍車をかけています。
その点、こちらは区画整理はなされているものの、昔ながらの農地が広がっていて、ふた昔以上前の宅地化されていない頃は、こんな感じだったという雰囲気がリアルに感じ取れます。
今回は長くなってしまうので、二回に分けて、次回再び松の川をさかのぼりたいと思います。