私はふだん社史とか会社創業者の立身伝などはあまり読みません。
脚色されていることが多いし、美談に仕立て上げられていることも多くて好きではないのです。
高校生のころ、城山三郎先生とか山崎豊子先生の経済小説を何冊か読みましたけれど、どうも好きになれなかったのです。
(よくこんな本が実家にあったと思います)
ただ、旅行に行くときはその土地の風物に関する書物、それもできるだけ伝聞ではない、直接の資料にあたりなさいと社会科の先生からはアドバイスを受けていました。
だから、東海道を調べるときには「膝栗毛」は参考にしていますし、読み物としてはあまり面白くない島崎藤村の「夜明け前」なども読みました。
当時の街道における宿場の様子がよくわかりますから。
(白黒だけれど当時の沿線の写真がたくさん掲載されています)
東急東横線の沿線散歩シリーズを書くにあたって、参考にしている本は別にあります。
けれど、沿線をお散歩するうちに、この路線を建設した経緯や、街がどのようにして成り立っていったのかを調べるために、実家にあったこの本を時々読んでいます。
(沿革史だけだと味気ないので、副読本として東急の創立者の伝記も読みました)
沿革史のほうは、奥付をみると発行は昭和18年3月25日、印刷は同月20日になっています。
もちろん古本屋さんやアマゾンには見当たりません。
ただし、国立国会図書館のデジタルコレクションにはあがっているので、全頁閲覧可能です。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913)
![イメージ 3]()
見ていて驚いたのは、初期のかなり苦しい経営状況を、図表を用いて正確に公開していることです。
それに昭和18年の3月といえば、太平洋戦争も3年目に入って戦局が悪化の一途を辿っているときです。
物資のひっ迫してきている時代に、これだけ写真や図表をふんだんに掲載した500ページ近くのハードカバーの本を上梓するとは、これをつくった人たちの意気込みを感じます。
![イメージ 4]()
これを読むと東横線の前身である東京横濱電鐵の目的は、
1.東京横浜間を往復する旅客貨物を敏活にすること
2.沿線の開発
3.東京山の手方面と東海道各方面間の旅客貨物の出入りを敏活にすること
の3つがあげられています。
1,2はともかく3において、当時は大動脈の東海道のバイパス機能を期待されていたわけです。
![イメージ 5]()
そう考えると、東横線は鉄道における東海道本線の脇往還だったわけで、これは小田急線なども同じ目的を担っていたのだと思います。
電車にお客が乗らなくて、沿線開発も思うようにすすまず、お金の工面も行き詰まって自殺を考えた時も、この公共の目的があって、将来それは必ず必要になるという信念があったからこそ、辛抱できたのでしょう。
それに、会社の窮状を関東大震災のような思いもかけない天災が救ったという話は、人間努力は必要だけれど、それだけでことは成就せず、人間には予測もつかない何かが与えられるのだと考えさせられます。
(撤去前の東横線渋谷駅)
いま、東急東横線に乗っても居眠りばかりしている私ですが、時折ふと窓の外に目をやって、この鉄道が敷設されたばかりのころの景色を頭の中に思い浮かべては、人の営みって色々なところでつながっているのだと感じています。
脚色されていることが多いし、美談に仕立て上げられていることも多くて好きではないのです。
高校生のころ、城山三郎先生とか山崎豊子先生の経済小説を何冊か読みましたけれど、どうも好きになれなかったのです。
ただ、旅行に行くときはその土地の風物に関する書物、それもできるだけ伝聞ではない、直接の資料にあたりなさいと社会科の先生からはアドバイスを受けていました。
だから、東海道を調べるときには「膝栗毛」は参考にしていますし、読み物としてはあまり面白くない島崎藤村の「夜明け前」なども読みました。
当時の街道における宿場の様子がよくわかりますから。
東急東横線の沿線散歩シリーズを書くにあたって、参考にしている本は別にあります。
けれど、沿線をお散歩するうちに、この路線を建設した経緯や、街がどのようにして成り立っていったのかを調べるために、実家にあったこの本を時々読んでいます。
(沿革史だけだと味気ないので、副読本として東急の創立者の伝記も読みました)
沿革史のほうは、奥付をみると発行は昭和18年3月25日、印刷は同月20日になっています。
もちろん古本屋さんやアマゾンには見当たりません。
ただし、国立国会図書館のデジタルコレクションにはあがっているので、全頁閲覧可能です。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913)
見ていて驚いたのは、初期のかなり苦しい経営状況を、図表を用いて正確に公開していることです。
それに昭和18年の3月といえば、太平洋戦争も3年目に入って戦局が悪化の一途を辿っているときです。
物資のひっ迫してきている時代に、これだけ写真や図表をふんだんに掲載した500ページ近くのハードカバーの本を上梓するとは、これをつくった人たちの意気込みを感じます。
これを読むと東横線の前身である東京横濱電鐵の目的は、
1.東京横浜間を往復する旅客貨物を敏活にすること
2.沿線の開発
3.東京山の手方面と東海道各方面間の旅客貨物の出入りを敏活にすること
の3つがあげられています。
1,2はともかく3において、当時は大動脈の東海道のバイパス機能を期待されていたわけです。
そう考えると、東横線は鉄道における東海道本線の脇往還だったわけで、これは小田急線なども同じ目的を担っていたのだと思います。
電車にお客が乗らなくて、沿線開発も思うようにすすまず、お金の工面も行き詰まって自殺を考えた時も、この公共の目的があって、将来それは必ず必要になるという信念があったからこそ、辛抱できたのでしょう。
それに、会社の窮状を関東大震災のような思いもかけない天災が救ったという話は、人間努力は必要だけれど、それだけでことは成就せず、人間には予測もつかない何かが与えられるのだと考えさせられます。
いま、東急東横線に乗っても居眠りばかりしている私ですが、時折ふと窓の外に目をやって、この鉄道が敷設されたばかりのころの景色を頭の中に思い浮かべては、人の営みって色々なところでつながっているのだと感じています。