先日、三浦市にある戦争遺跡にブロンプトンで行ってきました。
場所は初日の出でご紹介した遠津浜海岸のすぐ上です。
剱崎(つるぎざき)砲台と名前がついていますが、あるのは遠津山という浦賀水道の入り口を望む丘の上です。
大根畑のなかにポツンと丸いコンクリートの砲座跡が残っています。
また、やや北側にカモフラージュされたコンクリート製の格納庫も残っています。
こちらは探照灯を収納していたようです。
これらは旧帝国陸軍の軍事施設で、東京湾要塞の一角にあたります。
観光ガイドブックには載っていないこれらの遺構は、昔この付近をバイクで走り回っていた時に見かけて覚えていました。
その頃はすぐ下の雨崎海岸に旧軍の戦車の下半分だけが錆びだらけになって放置されていました。
砲台にあったのは15センチカノン砲。
東京湾に侵入してくる外国船を攻撃するため、大正15年に設置されました。
日清、日露両戦役において、敵艦が東京湾に侵入してくることを想定していたみたいですが、どうでしょう。
第二次世界大戦の末期でさえ、米軍は相模湾と九十九里浜から上陸して首都東京を挟撃すること(ダウンフォール作戦)を考えていたようですから、この砲座はあっても役に立たなかったのではないかと思います。
それ以前に、東京湾に外国の軍艦が侵入してくるかもという不安は、黒船のトラウマだと思うのです。
ペリー来航の時、黒船は浦賀湾で大人しくしていたわけではありません。
煮え切らない日本側の態度に業を煮やしたアメリカ側が、江戸城にて直接談判すると言い出して、一部の艦船を江戸湾深くに進出させたのです。
そのとき、浦賀奉行所から派遣された通訳が、池上本門寺の堂塔を指さして、あれが江戸城だなんて嘘をついてそれ以上の北上を食い止めたなんて逸話が残っています。
黒船騒ぎの後、薩英戦争や下関戦争(1863年~64年)で艦砲射撃の恐ろしさを味わった日本は、「海から来る敵」に対して過敏に反応するようになったのだと思います。
(もっと昔に元寇がありましたね。
鎌倉へ行って日蓮のことを調べていると、彼の外敵に対する警戒心がよく感じられます。)
航空機を経てミサイルの時代になった今も、「ある日核兵器が空から降ってくるのではないか」という似たような不安を私たちは抱えています。
コンクリートの遺構を眺めながら、戦争への恐怖はそうした不安が根もとにあるんだようなぁと思うのでした。