去る先月30日、シスター渡辺和子先生が亡くなられたというニュースに接しました。
たった一度講演会でお話を聴いただけですが、真の教育者とはあのような方のことをいうのだと、はっきりと印象に残ったのをおぼえています。
(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/38555683.html)
今日はもう一度あのときの言葉を振り返りながら、「本当の教育者とはどんな人か」について先生を偲んでみようと思います。
世の中には自らを高みにおいて指導することが教育だと勘違いしている人がたくさんいます。
皆さんは自分にも食べ物に好き嫌いがあるのに、子どもに「えり好みしないでなんでも食べなさい」と命じたことはありませんか。
自分は寒空の下で走ったこともないし、走る気もないのに、子どもにマラソン大会に出るよう働きかけたことはありませんか。
しかし、自分に食べられない野菜があること、マラソンなど走ったこともないことを公言したら、命令された子どもは素直にいうことをきいてくれるか不安になりますよね。
自分が気に食わない人に対しては冷たい態度をとり、他人を平然と批評したり批判したり、あちこちで陰口をたたきながら、いっぽうでは子どもたちの前で自分のことは棚に上げて、「いじめはいけません」などと平気でいう、それが「長」などという椅子に座っている学校を、私はあちこちで見てきました。
そういう人は自己の矛盾を他人から突かれることを極度に恐れているので、第三者的な立場で観察していれば、すぐにメッキが剥がれます。
渡辺先生は「自分を大切にするとは、利己主義ではない。むしろその逆。どんな自分でも見捨てないという魂。どんな自分であっても大切にするという愛情」と講演会で明言されていました。
それは、どんな自分に対しても寛容であれということとは違うと思います。
ひとは自分の持っていないものを他人に与えることはできません。
持っていないのに持っているふりをして、「あなたも(私のように)手に入れなさい」などと無責任に教育するくらいなら、持っていない事実を認める姿勢を素直に見せなさいということだと思うのです。
冗談じゃない、俺はこういうものを持っている。
他人も組織も認めているし、自負もある。
それを子どもたちに伝えて何が悪い。
そう反論されたことがあります。
わたしからいわせれば、「どうぞ、お与えなさい」です。
ただし、しょせんそれはあなたひとりで持ち得る程度のものでしょう。
その程度のものを対象に話をしているのではありません。
とくに大きな教育施設の長として責任を担う渡辺先生が、年々歳をとるごとに、これまでできたことができなくなってゆくのに、どうして教育者として慕われ続けたのか。
それは子どもたちの弱さを何でもかんでも受容したからでも、悩む親の相談に親身にのってきたからでも、責任者として長いこと重責を担ってきたからでも、ましてやベストセラーを書いたからでも、講演会が上手だったからでもないと私には思えました。
講演会を通して、自らの欠点を認めながら、その「欠けた部分」をいかにして授かりもの(キリスト教でいうならば「神の恵み」)に代えてゆくのか。
その勘所が、常人にはとても真似できないというところに、宗教家としての先生の真の教育者たる所以があったように、その日私は直感したのです。
いまから16年前、つまり渡辺先生ご自身が今でいう後期高齢者にさしかかる頃に上梓された本には、老いてゆくことへの不安、哀しみを素直に認めたうえで、次のような詩が紹介されていました。
この世で最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、
神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と
(ヘルマン・ホイヴェルス「最上のわざ」)
そして、「人生の冬という高齢期にさしかかったなら、過ぎ去った季節を懐かしむのではなく、暖房をいれて寒さをまぎらわせようとするのでもなく、むしろ冬のたましい、冬のいのちに触れようとすることこそが大切だ」として、「それまでに与えられたものを手放してゆくプロセスの中で、最後まで手放してはいけないもの、それが『祈り』である」と結んでいます。
(渡辺和子著「目にみえないけれど大切なもの」 PHP研究所 より)
この本をもうすぐ40になる頃に読んだときは、完全に「他人事」でした。
しかし、いま、自分の周囲を見渡してみても、、静かな祈りの習慣は大切だと思います。
同時に、不安を拭おうと虚勢を張ったり、悪口や怨嗟(それはまさしく「祈り」とはあべこべの「呪い」です)の声を口に出したりして平気でいるような年寄りにだけはなりたくないものだと焦るのです。
せっかく上手な老い方、死に方までをも示してくださったのですから、今からでも遅くはない、下手は下手なりに真似してみようと思うわけで。
上記詩文には「まことのふるさと」とありますが、カトリックでは亡くなることを「帰天」といいます。
お亡くなりになったニュースに接した瞬間、天に帰って父なる神から「大変だったね。ご苦労さま」と労われている先生の姿を、内心で少しだけ想像していました。
ありがとうございました。
ゆっくりお休みになってくださいと、そっとお祈りした次第です。