ある暮れのこと京都から自宅へ戻る際に、青春18きっぷが余っているのをよいことに、ふと鈍色の冬の日本海が見たくなり、北陸本線周りで帰ったことがありました。
もちろん、北陸新幹線なんか無い時代ですよ。
京都から湖西線を経由して敦賀に出て、福井、石川、富山と、海側の景色と、鈍行列車に乗り降りする乗客を観察していました。
(当時の北陸本線には特急列車を改良した普通列車が走っていたため、乗り心地は良かったのです)
そこで気が付いたのですが、日本海側の住宅って海側が裏手、つまり北側になるのです。
東海道で海側は南側と見慣れている私には、海を背景にして手前に開口の空いている住宅やマンションを見て、とても奇妙な感じを抱きました。
海側に玄関ドアがあって、大きな窓や縁側はだいたいマウンテンビューですから。
![イメージ 2]()
行けるところまで行って駅近くに泊まろう、当時ブロンプトンの無い私は、そんな気持ちで普通電車に揺られていました。
夕方の16時に糸魚川到着。
まだ先の直江津方面へ行けたのですが、翌日横浜に帰るのに大糸線―中央線回りが良いか、長岡まで出て上越線経由が良いか考えあぐねていたので、ここに宿をとりました。
寒い冬に真っ暗な中で宿探しするのも億劫でしたから。
もちろん、新幹線のできたいま、北陸本線は第三セクターになって新潟県内のそれ(えちごトキめき鉄道)では青春18きっぷが利用できません。
(福井、石川、富山県内は通過に限り使用可)
あのような旅ができる最後の方のチャンスだったかもしれません。
(かつて駅にあったレンガ造りの機関庫は新幹線の工事に伴い解体されました。今はアルプス口(南口)にファッサートとして名残をとどめるのみです)
宿泊したのは駅からほど近いビジネスホテル。
ほんとうに商人宿という感じで、観光的な要素はほとんどありません。
日本海を眺めてから早めに夕食をとろうと、荷物を置いたら海までぶらぶら歩きます。
あの頃、ブロンプトンがあったらもっと行動範囲が広かったのに。
(新幹線が通る前の糸魚川駅)
何度か来て知ってはいたのですが、糸魚川の街の海沿いは国道8号線がはしり、その向こうはテトラポットの山なのです。
砂浜(というか石浜)に出ようと思ったら、もうひとつ長岡寄りの梶屋敷駅との中間にある、海川の河口付近にゆかねばなりません。
ブロンプトンがあれば…
(海まで歩いても10分強です。でもこれでは近づけません)
振り返ると、市内からよく見える黒姫山が砂糖菓子のように雪を被っています。
あの山、名前とは裏腹に石灰石でできているものだから、夏でも白っぽいのです。
その手前に、日本有数の「暴れ川」として有名な姫川が海へ流れ込んでいるはずです。
こちらも名前と裏腹、いや合っているかな。
姫川は日本一水質がきれいで、河原からヒスイが出ることでもよく知られています。
(手前は人気だった割烹の鶴来屋さん。ここも焼け落ちてしまいましたが、プレハブで営業を再開するそうです。後ろに見える山が糸魚川市の黒姫山です)
振り返れば、糸魚川市というのは姫川の存在も含めて大きな災害に見舞われてきた歴史のある街です。
江戸時代の大火記録は一度や二度ではありません。
そのほかにも、地震による山腹崩壊、火山の噴火による火砕流、姫川の氾濫による土砂災害と、もうこれでもかと災害の歴史を背負っているのです。
(街中にあった毘沙門天)
鉄道旅行オタクとして記憶に新しいのは、1997年7月の水害で大糸北線が不通になり、実に29カ月もの時間をかけて復旧したことです。
大糸北線というのは、ローカル線中のローカル線で、それまででも廃止が取りざたされておりました。
(一日に列車が9往復のみです)
流出した橋やトンネルを路盤ごと放棄して、新たに線路を引きなおしたとき、この地域の人たちの鉄道に対する想いを感じたものです。
結局この時も翌日は雨だったので、待ち時間の長い大糸線は避けて、北陸本線、上越線を経由して上野へ帰りました。
(北国街道沿いのお店。大瀬玩具店。もう現在はやっていなかったみたいです。)
今回の火災であの雁木つくりの続く木造の街並みは焼失し、有名な蔵元も灰燼に帰したといいます。
でも、一度でも糸魚川に行ったことのある人なら、あの辛抱強く暮らしてきた人たちは、どんな困難も乗り越えて復活するに違いないと信じることができると思うのです。
どうか諦めることなく、少しずつでも前へ進んでくださいとお祈りしております。
(北国街道に連なる雁木造りの商店街。)
もちろん、北陸新幹線なんか無い時代ですよ。
京都から湖西線を経由して敦賀に出て、福井、石川、富山と、海側の景色と、鈍行列車に乗り降りする乗客を観察していました。
そこで気が付いたのですが、日本海側の住宅って海側が裏手、つまり北側になるのです。
東海道で海側は南側と見慣れている私には、海を背景にして手前に開口の空いている住宅やマンションを見て、とても奇妙な感じを抱きました。
海側に玄関ドアがあって、大きな窓や縁側はだいたいマウンテンビューですから。
行けるところまで行って駅近くに泊まろう、当時ブロンプトンの無い私は、そんな気持ちで普通電車に揺られていました。
夕方の16時に糸魚川到着。
まだ先の直江津方面へ行けたのですが、翌日横浜に帰るのに大糸線―中央線回りが良いか、長岡まで出て上越線経由が良いか考えあぐねていたので、ここに宿をとりました。
寒い冬に真っ暗な中で宿探しするのも億劫でしたから。
もちろん、新幹線のできたいま、北陸本線は第三セクターになって新潟県内のそれ(えちごトキめき鉄道)では青春18きっぷが利用できません。
(福井、石川、富山県内は通過に限り使用可)
あのような旅ができる最後の方のチャンスだったかもしれません。
宿泊したのは駅からほど近いビジネスホテル。
ほんとうに商人宿という感じで、観光的な要素はほとんどありません。
日本海を眺めてから早めに夕食をとろうと、荷物を置いたら海までぶらぶら歩きます。
あの頃、ブロンプトンがあったらもっと行動範囲が広かったのに。
何度か来て知ってはいたのですが、糸魚川の街の海沿いは国道8号線がはしり、その向こうはテトラポットの山なのです。
砂浜(というか石浜)に出ようと思ったら、もうひとつ長岡寄りの梶屋敷駅との中間にある、海川の河口付近にゆかねばなりません。
ブロンプトンがあれば…
振り返ると、市内からよく見える黒姫山が砂糖菓子のように雪を被っています。
あの山、名前とは裏腹に石灰石でできているものだから、夏でも白っぽいのです。
その手前に、日本有数の「暴れ川」として有名な姫川が海へ流れ込んでいるはずです。
こちらも名前と裏腹、いや合っているかな。
姫川は日本一水質がきれいで、河原からヒスイが出ることでもよく知られています。
振り返れば、糸魚川市というのは姫川の存在も含めて大きな災害に見舞われてきた歴史のある街です。
江戸時代の大火記録は一度や二度ではありません。
そのほかにも、地震による山腹崩壊、火山の噴火による火砕流、姫川の氾濫による土砂災害と、もうこれでもかと災害の歴史を背負っているのです。
鉄道旅行オタクとして記憶に新しいのは、1997年7月の水害で大糸北線が不通になり、実に29カ月もの時間をかけて復旧したことです。
大糸北線というのは、ローカル線中のローカル線で、それまででも廃止が取りざたされておりました。
(一日に列車が9往復のみです)
流出した橋やトンネルを路盤ごと放棄して、新たに線路を引きなおしたとき、この地域の人たちの鉄道に対する想いを感じたものです。
結局この時も翌日は雨だったので、待ち時間の長い大糸線は避けて、北陸本線、上越線を経由して上野へ帰りました。
今回の火災であの雁木つくりの続く木造の街並みは焼失し、有名な蔵元も灰燼に帰したといいます。
でも、一度でも糸魚川に行ったことのある人なら、あの辛抱強く暮らしてきた人たちは、どんな困難も乗り越えて復活するに違いないと信じることができると思うのです。
どうか諦めることなく、少しずつでも前へ進んでくださいとお祈りしております。