駅のある住所は川崎市中原区木月です。
もとの地名が住吉村だったことから、古い住民のたっての希望でこの名前になったそうです。
この駅の南側には東横線の車両基地があります。
以前は通過する電車の車窓からよく見えたものですが、高架駅になってからは駅から下車して地階におりないと、その存在は分かりません。
地階に下りてみると、東口と西口の間に踏切があります。
これが、車両基地に入るための踏切です。
かつてはこの踏切の南(日吉)側に車両基地、北(武蔵小杉)側に駅がありました。
高架になってから踏切の南側に駅舎やホームは移りましたが、東横線の開業当初は同じ場所に地上駅があったそうです。
駅のすぐ西側には、住吉神社(35.565815, 139.654480)があります。
この神社は付近の村々にあった鎮守さまを合祀したため、ご祭神が10もあります。
神社は合祀するとこうなるわけです。
神社から駅前の踏切に戻りましょう。
東口から駅を背にのびる商店街をオズ通り商店街、西口のそれをブレーメン通り商店街といいます。
1989年に元住吉西口商店街から今の名前に改名し、1991年にはドイツ・ブレーメン市の旧市街にあるロイド・パッサーゲという商店街と友好提携に合意しました。
あちらの写真を見ると、現代ドイツっぽいアーケードです(53.077723,8.805694)。
そもそもなぜブレーメンなのでしょう。
改名当時、街づくりのコンセプトが「中世ヨーロッパのロマンと語らい」だったそうで、グリム、アンデルセン、ブレーメンの三案からブレーメンを選択したのだそうです。
当時はバブル真っ盛りの時代。
地方にも次々と国別テーマパークがオープンして隆盛を極めている時代でしたから、そんな流れだったのでしょう。
その後、よくわからない国際化の時代が破綻し、グローバル化の御代になって、この商店街はブレーメンという名前のアイデンティティを定着させたと思います。
子どもたちに親しみやすく、年老いた動物たちが力を合わせてというブレーメンの音楽隊の話が、どこか今の高齢化社会における駅前通り商店街のコンセプトと合致しているからでしょう。
今では東横線の神奈川県側の商店街として大倉山のエルム通り商店街とならんで有名です。
読んでいないけれど、阿川佐和子さんの『屋上のあるアパート』という小説は、学生時代に過ごした元住吉が舞台なのだそうです。
元住吉駅ではブレーメン通り商店街をどんどん西へ進んでみましょう。
活気のある商店街なので、平日のお昼近くでも自転車を押さねばならないほどの人出です。
そして正午から午後7時までは毎日が歩行者天国です。
道はどこまでも平坦で、車が滅多に入ってきません。
ブレーメン通りをまっすぐゆくと、井田中ノ町商店街にそのまま接続します。
こちらの方は、昭和の元住吉の雰囲気が残っています。
道なりにまっすぐ行って井田1丁目交差点で交通量の激しい道にぶつかります。
これが神奈川県道14号線(鶴見溝ノ口線)です。
しかし川崎市民には、重複している尻手黒川線という名前の方が有名です。
「しりて~」ではなく「しってくろかわ」と読みます。
尻手黒川線を西方向に250mほどゆくと、川崎市バスの井田営業所(35.565635, 139.639076)があります。
川崎市バスは臨海部を除いて、路線が多彩なわりには一路線当たりの運行本数は極めて少なく、時刻表だけ見るととても都市のバスとは思えない運行間隔の路線が、北部はとくに多いのです。
この井田営業所を起点・通過するバスも、12系統の路線に対し、経由行き先違いで25も種類もあります。
武蔵小杉駅や武蔵新城駅などは近隣駅ですが、川崎駅西口や小田急線の向ヶ丘遊園駅まで行くバスもあります。
こういうバス営業所の位置を知っておくと、何かアクシデントがあったり急に雨が降ってきたりしたときに便利です。
なにせ大半のバスが始発なので、ブロンプトンをつれていても乗せやすいですから。
バス営業所の裏手南側には矢上川と江川の合流点があります。
戦前、このあたりは川岸に見事な桜並木があって、お花見の名所だったそうです。
いまは少し下流の井田公園にその名残が少しだけあります。
そして、江川もまた、元住吉駅付近を流れている渋川と同様に、二ヶ領用水の分流のひとつです。
暗渠は親水公園化されており、両脇の側道を上流方向にたどってゆけば、自然に武蔵新城駅前に出ます。
井田営業所から尻手黒川線の裏道を抜けて子母口まで行きます。
元住吉からずっと平坦だったのが、子母口で丘陵にぶつかります。
ここ子母口は「潮口」が転訛したといわれていて、縄文海進のころは東京湾がここまで入り込んだ海岸線の入江でした。
その証拠に貝塚があり、そこから子母口式とよばれる縄文時代の土器が出ています。
東横線が開通したころでも、遮るものはなかったので、この丘は多摩川の土手からよく見えたといいます。
そして丘の南側からのぼってすぐの場所にあるのが、橘樹(たちばな)神社(35.572747,139.626055)です。
社伝には日本武尊東征のおり、ここから房総半島へ船を漕ぎだしたものの途中海が荒れ、一行に随行していた弟橘姫が海神を鎮めるため入水したところ、嵐がおさまり、その後ここに姫の着物と髪につけていた櫛が流れ着いたという故事からとあります。
ここから船出したかどうかはともかく、東京湾で暴風にあった話は日本書紀にも出てきますし、衣や櫛が流れ着いたという話も古事記に出てきます。
そんなわけで、小さくて目立たないのですが延喜式にも出てくる由緒正しい神社なのです。
そもそも関東が「あずま」と呼ばれるようになったのは、姫の犠牲の死を悼む尊が「吾妻はや」と嘆いたことからともいわれています。
また、明治のころまで川崎市と横浜市の境を中心としたこの一帯は橘樹郡と呼ばれていました。
さらに、橘樹神社の裏手にある丘陵の頂上部には、富士見台古墳(35.574413,139.625392)があります。
姫の御陵ともいわれていますが、実際はこの付近を治めていた豪族の墓らしく、この付近から日吉にかけてはその時代に橘花屯倉(たちばなのみやけ=ヤマト王権の直轄地)であったとされているのです。
ここまで来たらついでに中原街道をはさんで向かい側の丘にある影向(ようごう)寺(35.574413,139.625392)へ行ってみましょう。
中原街道イコール古・東海道で、海岸線に沿った道であったわけですから、これら丘陵は海に突き出た岬であったとも想像できます。
影向寺は別名「関東の正倉院」といわれるように、この付近屈指の古刹です。
建物などは残っていませんが、発掘調査によると創建は7世紀後半まで遡ることができ、奈良時代には武蔵野国橘樹郡の郡衙(ぐんが=役所)がここに設置されていたとみられています。
奈良時代には金堂や三重塔があって、この付近一帯の防人として任務に就く人たちの集合場所であったそうです。
三重塔の礎石として使われていたといわれる影向石が、境内の東南角に置かれています。
平安時代には天台宗の寺院として深大寺と結びつき、江戸時代初期に今の名前になって、影向石のくぼみにたまった水が眼病に効くと信仰を集めたそうです。![イメージ 13]()
帰りは来た道を元住吉戻っても良いですし、中原街道を東京方向へ走ればゆっくり走って10分ほどで武蔵中原駅付近を通り、30分もかからずに丸子橋までゆけます。
また県道14号を北方向へゆけば、南武線と田園都市線の交点である武蔵溝ノ口駅にも出られます。
影向寺のホームページにもあるたちばなの散歩道は、尾根の道をたどって15分程度でアップダウンなく田園都市線の梶が谷駅まで行くことができます。
代官山、多摩川、そして元住吉と、都市化の進んだ東横線沿線にこんなに古代のロマンに触れられる場所があるとは、ちょっと驚きです。
橘樹神社のある場所は、一番近いJR南武線武蔵新城駅からでも直線で1.65㎞、元住吉駅からなら2.7㎞、田園都市線の梶が谷駅からは3㎞あります。
ブロンプトンをつれての沿線散歩の良いところは、このくらいの距離で一日にいくつもの場所に立ち寄ることができることではないでしょうか。
次回は元住吉駅から日吉駅にかけてご案内します。