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旧東海道へブロンプトンをつれて 31新居宿(その2)

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イメージ 1(手前の伝馬船の蓆は、スパンカーでしょうか。艫じゃなく舳だから、帆でしょうか。信号旗という説もあるそうな)

新居関所を背に国道301号線を右(西方向)へゆくと、60mほどで道に左側に紀伊国屋資料館(34.694733, 137.559939)が見えてきます。
1703年に開業の旅籠で、紀州藩の御用宿になったことから紀伊国屋の名前がついています。
建物は舞阪宿の脇本陣茗荷屋と良く似たつくりですが、旅籠と脇本陣では入口や客室に違いがあることが分かります。
また、ここは旅の道具が館内に数多く展示されているので、開いている時間帯に通ったら、ぜひ一度は立ち寄ってみてください。
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(紀伊国屋資料館。なぜか福助がお出迎え)
 
時代劇の影響で、江戸時代に農民は土地に縛り付けられて旅などできず、旅は商人や武士のものというイメージがついていますよね。
たぶん、身分を隠して旅をしながら、クライマックスにお供が印籠を出すあの長寿番組の影響だと思います。
なんか、悪代官に苛められ、搾り取られるのは農民で、旅をしているのはやくざ者とか、ご本人が仮の姿としてやつしている商人という話が多かったせいでしょうか。
しかし、実際にこうした旅籠、木賃宿の件数、収容人数から推定すると、江戸時代の庶民の大半を占めた農民も、かなりの人数が旅をしていたそうです。
もちろん、江戸期にも凶作が続いて倹約令が出た時期などは別にして、一生自分の生国から出たことのない農民など、数としてはごくわずかだったのではないかといわれています。
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(江戸時代、漫遊記、お風呂とくれば、そう、あの女優さんですよね。風呂場の隅には彼女の写真が・・・)
 
この旅籠では、その頃の庶民の旅の道具がたくさん展示されています。
携行する旅の道具は、今も昔もなるべく小さくて軽量でということなのでしょう。
巾着型の火打石入れなんて、キーケースより小さいですし、弁当箱は水筒兼用で、ちゃんと中身が外へこぼれないように留め具がしつらえてありました。
また、携行用ガイドブックは小さなサイズに字がびっしりで、挿絵も小さく入っています。
いっぽう商人の使う出商い箱(商品をいれて背中に担ぎ、移動販売のための荷箱)は、引き出しがたくさん設けられていて、外の扉にはちゃんと錠掛けできるようになっています。
こういう小細工って、日本人は本当に得意だと思います。
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(左はFolding pillowなのです。江戸時代からこんな製品考えつく人がいたのですね)
 
いっぽう宿の台所やお風呂、厠などはかなり新しい材料で復元されていました。
二階の客間に木製の角枕と船底枕が体験用に置いてありました。
頭の下において、畳に寝そべってみたところ、角枕のほうは「これでよく眠れるな」と思うほど痛かったです。
いっぽう時代劇でよく見かける船底枕の方は、高すぎました。
これでは首が痛くなりそうです。
資料館の方と話していたら、すぐ近くに明治から昭和にかけての芸者の置屋さんが公開されていると聞き、寄ってみることにしました。
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(角まくらは積み木にしか見えませんでした。昔の人はよくこんな枕で寝ていられたと思います)


資料館を出て江戸寄りの路地を右に入り、南へ50m行ったところにあるのが、小松楼まちづくり資料館(34.694027, 137.559849)です。
関所が廃止されたのちも、新居宿は養鰻業者や漁師で賑わい、旧東海道の南側にあたるこの付近には、10軒以上の置屋に60から80人もの芸者さんがいたといいます。
紅色の内壁や、布のカバーがかかった鏡台がどことなく艶っぽいです。
三味線や壁に立てかけられた琴、オルガンやミシンなどを眺めていると、そんなに暗い感じはしません。
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小松楼まちづくり資料館

芸者さんの写真も飾られていたので見ました。
和装に日本髪でバイオリンを弾いたり、椅子に腰かけたりしているのですが、みなさん目力が凄い。
そういう意味で皆さん別嬪です。
横須賀の三笠記念館に飾られている水兵さんたちの写真を見たときにも思ったのですが、明治から戦前にかけての人物写真に写っている人たちって、「死んだ目」をしている人がひとりもいないのですよ。
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(このあたりの楽器や道具になりますと、昔見た記憶があるものもあります)


それに、飾られている屏風の歌や浄瑠璃の本を見ると、相当教養も高そうです。
芸達者で高い教養をもって、この頃の芸者さんって現代からイメージする姿とかなり違う印象です。

だから、今の感覚でいえば大変な仕事だったかもしれないのですが、それだけでは無かった気がするのです。

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(二階の突き出しに浴衣姿で腰かけて、うちわを仰ぎながら通りを見下ろしてそうです)

さて、建物探訪はこれくらいにして、旧東海道を進みましょう。
紀伊国屋資料館のさき、泉町交差点(34.695090, 137.559111)で左折し、南に向かいます。
泉町交差点正面右側の古い家が飯田武兵衛本陣跡で、その2軒左隣の空き地になっているところが疋田八兵衛本陣跡です。
どうやら、この泉町交差点付近が、新居宿の中心だったようです。
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(泉町交差点を左折します。正面の古い家が飯田屋本陣跡です)
 
そこから商店街を抜けてごくごく緩い坂をのぼってゆきます。
新居宿の街は、おそらく津波に備えてこの場所になったのでしょう。
太平洋側から見ると、入江の裏手になっています。
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(左;ごくゆうるいのぼり坂になっています 右;一里塚から見える突当りのクランクが、枡形の遺構でしょう)

泉町から400mほど南に向かった左側に一里塚跡があり、そのさきおよそ80mで旧東海道は右折、左折とクランクします。
このあたりが棒鼻跡で宿場のはずれにあたります。
クランクから100mほど南へ進んだところで、国道1号線の橋本交差点(34.687174, 137.557663)に出ます。
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(棒鼻跡と橋本交差点。すぐ右折するので、渡らずに右側の歩道を進みましょう)

国道1号線といっても、さらに南の海沿いを走る浜名バイパスが無料化されたため、大半の車はそちらを走るようになり、閑散としています。
旧東海道は橋本交差点を右折して西へ向かいます。
120mさきの橋本西交差点(34.686539,137.555723)で旧東海道は右手の路地に入ります。
交差点の右側には、時宗の教恩寺があります。
源頼朝に寵愛された遊女が、頼朝の没後に創建したと伝えられるお寺です。
源頼朝っていうと、馬入川落馬事件とか、黄瀬川の兄弟対面、富士川の戦いなどで登場してきましたが、東海道と縁が深い武将ですよね。
この後も、また登場しますよ。
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(橋本西交差点と教恩寺)

次回は橋本西交差点から次の白須賀宿へと向かいます。
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旧東海道ルート図(浜松駅入口~二川駅前)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1c0fa9a276c470f9763d5ca0e44aa1a0


 

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