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平和って何だろう(2/2)

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(昨日からのつづき)

『戦争というものはいいものではなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと、罪悪だと思います。
人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては悪行為なのです。
しかし、国としては、生存ということを考えなくてはならない。
だから、生存を維持するための最後の手段として仕方がない。
だから、生存のため以外に国軍を使うことは、私は、イクスパンショニズム(expansionism=拡張主義)であり、ミリタリズム(militarism=軍国主義)であり、インペリアリズム(imperialism=帝国主義)であると思います。
そんなことで、国民を殺すことは、その政府が悪い。
私はそういう持論でした。』
(防衛弘済会月刊誌「修観」 井上成美氏発言)
イメージ 1
(2012年の観艦式の日に大桟橋で顔をあわせた、当時の飛鳥Ⅱと護衛艦ひゅうが 観艦式は3年に一度なので、今年の10月18日に行われます。)
 
いまの政府は盛んに危機を強調します。
だから自衛隊の活動範囲を海外へ広げて、同盟国の要請に応えねばならないと説明しています。
けれども、かつて300万人以上の犠牲者を出した戦争を戦った先人たちの、上記のような声をどう受け止めるのでしょうか。
「時代が違う」と言って斥けるのでしょうか。
そこには「武力とは何か」とか「平和とは何か」という本質の話が抜けているように思えてなりません。
どうして集団的自衛権は必要悪だと断言したうえで、それでもどうしても行使せざるを得ない場合があると説明しないのでしょうか。
こういう時代だからこういう責任があって、日本はそれを果たさねばならないことの裏打ちが全く見えてきません。
きこえてくるのは、いっぽうで危機感を喚起しながら、もういっぽうで「リスクは低下する」「戦争に巻き込まれることは絶対にない」という支離滅裂な話ばかりです。
イメージ 2
(大桟橋に全通甲板をもつ航空母艦のような艦形の船はどうも・・・)
 
いま、海を隔てた隣国が日本に照準を定めてミサイルを配備しているのは知っています。
私は30年以上前の学生のころ、その中国を一か月以上にわたって一人で旅をしました。
まだ人民服を着て自転車に乗る人が都市を洪水のように埋めていた時代です。
もちろん、中国はその頃も核をもって日本と対峙していました。
何より冷戦の真っただ中で、日米と敵対する社会主義陣営の国でした。
でも日本の政治家はだれ一人として、中国の脅威を警告する人はいませんでした。
今よりもはるかに意思疎通のはかれない敵方だった国にもかかわらずです。
現地では抗日ドラマも放映していましたよ。
当時から荒唐無稽でしたが、観ている人たちは娯楽と割り切っているようでした。
もちろん、現地でも「日本鬼子」なんて面と向かって言われたことは一度もありません。
(※これには地域性があり、東北地方=旧満州ではだいぶ印象が違うといわれていました)
そこで見たのは、日々の暮らしを一所懸命に生きる巷の人々です。
イメージ 3
(大勢の人と、なぜか甲板にクレーン車を載せて出航しました)
 
あるとき、長距離列車に乗る機会がありました。
当時、中国人以外は外貨兌換券という名の外国人専用の通貨しか使うことを許されませんでした。
だから貧乏学生でも不本意ながら高級な寝台車に乗るしか手はありませんでした。
日本でいう1等寝台車の旅人となって、大陸を23日かけて横断したわけです。
そのとき、4人定員のコンパートメントにいたのは、私と同様の日本人バックパッカーの女性、それに日本からの語学留学生と3人までが日本人でした。
最後のひとりは、70をゆうに越えていると思われる痩せた中国人のおじいさん。
肩章に星のついた、しかしさっぱりとした軍隊の略装を着ていました。
勲章もつけていたから、おそらく偉い人だったのでしょう。
入ってくるなり挨拶もそこそこに、彼が足を引きずっていたので、私たち日本人は下段のベッドを譲りました。
中国語の達者な留学生が何気なく、「足をどうされました?」と訊きました。
するとおじいさんは
「むかし八路軍(「パール-」という発音は私も聞き取れました)にいたころ、日本軍に足を銃で撃ち抜かれたのさ」と答えました。
私たちが困惑して互いの顔を見合わせていると。
「でも今は日中友好だよ」と笑いながら一人ずつ握手してくれました。
それから3日の間、そのおじいさんとは筆談で色々と話をしましたが、失礼な質問にも屈託なく答えてくれました。
ウォークマンで当時の日本の流行歌を聴かせたら、「年寄りには早すぎてついてゆけないよ」と苦笑していました。
いま、中国の脅威という話題を見聞するたびに、あの時の旅のことを思い出しています。
イメージ 4
(奥の船はサン・プリンセス=77,441トン ひゅうがの基準が13,950トンですから、大きさの違いは一目瞭然です)
 
もちろん、今の中国はかつての中国とは違います。
自転車の海に車が浮き沈みしていた通りは、ハイウェイになって車が列をなしています。
あのころ、通りに面したホテルのレストランで食事をしていると、ウィンドウいっぱいに人の顔が並び、奥のMTVの映像を食い入るように眺めていたものですが、彼らはいまやパソコンで動画をダウンロードしているにちがいありません。
それでも、人の心とか国民性といったものは、そう簡単に変わるものではないと思うのです。

何よりも、自分がその国で体験したこと以上の実感はありません。

だから、私は戦争を経験したことのない日本の政治家の説く備えにむけた必要性よりも、本当に戦争を戦いぬいた日本の軍人の反省のことばを重く受け止めています。
また、いまの中国の政治家や軍人の発する言葉や、ネット上に溢れる中国人とされる人たちの言葉よりも、あの屈託のない笑顔で握手してくれた「本物の抗日戦争の英雄」の言葉を信じています。
イメージ 5
(旧海軍の横須賀第二(長井)飛行場跡地と、そのすぐそばの海岸崖上に建つ、もと井上成美邸)

私はいまになって、若い時分に中国やアメリカをひとりで旅しておいてよかったと思っています。
そして、もしインターネットなどの情報で国際情勢に不安をおぼえている若いひとがいたら、ぜひ世界に飛び出して、そこに住む実際の人の姿を見てきて欲しいと願っています。
誰もが安価に大概の外国へ行けるという点が、太平洋戦争前と今との大きな違いです。
だから、アメリカへ行っても、中国へ行っても、かの国に住む人々が「本当に生存のための戦争を欲しているのか」、彼らの生活を通して見極めて欲しいのです。
そして、国とは何か、軍隊とは何か、平和とは何かを考えてみたらいかがでしょう。
自分の目と耳と、そして心を開いて見聞したもの、現地の人たちと交流した思い出は、一生変わることはありません。
いつか、かつて若いころに旅した場所を、ブロンプトンをつれて巡ってみようと思いながら、そんなことを考えていました。
イメージ 6
(横須賀港のお隣の長浦港。いまの海上自衛隊の艦隊司令部があるのはこちら)



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