先日、本を読んでいて気になる記述があったので、書き留めておきました。
『武力を用いようとする者たちは、平和が何かを語らず、戦争の脅威だけを語ろうとすることがある。
「積極的平和主義」を唱える人々によって、戦争の可能性が高められているのが今日の日本です。
自らの行為が「平和的」であると信じて疑わない者たちは、しばしば平和とは何かを考えていない。
そうした言論の在り方はいつしか、平和を語ることは観念論に過ぎないというような雰囲気を作り出します。
どんな理由があったとしても、平和を真剣に語る者がいなくなったとき、それが自分たちの目の前から失われることがあっても文句はいえないのかもしれません。
大切なものを、大事にしないで、それが無くなったとしても当然だからです。
平和という言葉が真に意味するものが、今、私たちのもとから奪われようとしているのかもしれません。』
(若松英輔著『霊性の哲学』角川選書)
おなじころ、90歳を越えた方とお話する機会がありました。
話の中で、今の状況は太平洋戦争に向かって坂を転げ落ちてゆく時代と、雰囲気が良く似ているという話題になりました。
「どういうところが似ているのですか?」とお尋ねしたところ、政府も、マスコミも、市民も、「もうそうするしかない」という枠にとらわれて、誰もそこから抜け出す気分になれなかった、その枠をはめようとしているところにいまきているようでならないということをお話されていました。
私は戦争の時代を実体験していません。
だから、交戦状態にある国は、旅はもちろん人々との自由な交流もできなくなるということは、想像はできても実際にどれほど深刻なことなのかは実感できません。
しかし、旧街道をブロンプトンで走っていると、戦争の傷跡に出会うことも多いので、その時代の資料を読むことがあります。
「冷静に考えると、工業力11倍の国に戦いを挑んで勝てるわけがないのに、なぜそんな無謀な戦争に突入していったのか」という類の話になると、きまって出てくる答えがあります。
「あの時はそうするしか方法がなかった」とか「勝てぬと分かっていても戦わねばならなかった」という趣旨の証言です。
だから太平洋戦争は、「侵略戦争」と「自衛戦争」の相反する評価が並立するわけでしょう。
その時代を生きた人からすれば、「あのときはまった枠は、経験せねばわからない。いずれにせよ、後からなら何とでも言える」と思っていらっしゃるのかもしれません。
では今の状況は、かつての日本のどのあたりに雰囲気が似ているのでしょう。
私は第一次世界大戦とか、対華21か条要求のあたりではないかな、と感じています。
その頃まで遡って太平洋戦争の因果を求める資料って、本屋さんに並んでいる本ではなかなかお目にかかれないのですが、あまり知られていないだけに、資料を読むと「なるほど良く似ている」と考えさせられることが多々あります。
日本が第一次世界大戦に遠くヨーロッパまで海軍を派遣して、犠牲者が出ていたことをご存知でしょうか。
当時は日露戦争の前に結んだ日英同盟がまだ有効で、イギリスからの要請によって政治的な判断で、インド洋から地中海にかけて海軍艦艇18隻を派遣し、連合国側商船の護衛と救助活動を行いました。
後方における平和維持活動であったにもかかわらず、敵国潜水艦の攻撃により駆逐艦1隻の大破という損害を含み、合計78名の戦死者を出しました。
つまり、英国を助けるために日本人がそれだけ犠牲になったということです。
念を押しておきますけれど、このとき日本は連合国側、つまり勝者の側に立って参戦・後方支援をしたのです。
海軍兵学校を首席で卒業し、第二次世界大戦中に海軍省において軍政面で活躍した軍人がこんな言葉を残していました。
『軍隊は国の独立を保持するものであって、政策に使うのは邪道と見ている。
独立を保てぬという時は戦争をやるが、政策の具に使ってはならぬ。
政策に使われたとき、軍人は喜んで死ねるか。
第一次世界大戦に駆逐艦を出したのは不可と思っていた』
(高木惣吉『高木海軍少将覚え書』)
もし、勝利をもって正義とするなら、その時代の国益に適った行為に対しても、軍の中にこのような反省が存在することに、少し驚きました。
しかしその時点では、たとえ世界平和のためという大義があっても、同盟国のために軍隊を派遣することに、懐疑的な意見が多数あったといいます。
そしてのちに、全く同じ意見が日独伊三国同盟締結の際に、海軍の中から出されました。
けれども既にこのとき、政府もマスコミも市民も、こうした正論に耳を傾ける者はごくわずかになっていたといいます。
「いつの間にか」「何となく」「不景気が続いて」気付かぬうちに枠がはまっていたのだとしたら、本当に恐ろしいことだと思います。
「国家の備える軍隊の本質は、その国家の存立を擁護することにあります。
他国の戦いに馳せ参じるような行動は、その本質に違反しているのです。
したがって、第一次世界大戦に日本が参戦したのも、邪道というものです。
海軍が三国同盟に反対する主な理由は、この国家の軍隊の本質という根本的な考えに基づき、いわゆる自動的に参戦するという点について問題になるのです。
たとえ条約に締結した国が他国から攻撃された場合においても、自動的に参戦するなどという条件には絶対に賛成できず、この考えは最後まで堅持しました。
(政府の)最高会議で何度も、繰り返し追いつめられても、海軍が最後まで譲らなかったのは、自動的に参戦するのは嫌だという一点に尽きるのです」
(昭和21年1月開催 旧海軍首脳部座談会 井上成美氏発言)
日独伊三国同盟締結に抵抗した海軍は、国会でも街頭でも「弱虫」と蔑まれ、反対を主張する軍人は「アカ」呼ばわりされて、テロの標的とされました。
いっぽう同盟締結に際しては、「明治憲法のもとでは天皇陛下の裁可を仰いだうえで、天皇が統帥権を発動しなければ軍は動かせないのだから、そうやすやすと戦争になるわけがない」という反論があったそうです。
いっぽう同盟締結に際しては、「明治憲法のもとでは天皇陛下の裁可を仰いだうえで、天皇が統帥権を発動しなければ軍は動かせないのだから、そうやすやすと戦争になるわけがない」という反論があったそうです。
けれども、その統帥権をたてにして陸軍の参謀本部が戦争への牽引役をし、当時神とあがめられていた天皇でさえ、対米開戦を拒絶して阻止できなかったことは、誰もが知っていることです。
旧東海道の旅、興津宿の坐魚荘のところでご紹介した西園寺公望公の最後のことばは、そのときに発されたものです。
「いったいこの国をどこにもってゆくのや」
(つづく)