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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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TY09多摩川駅からTY10新丸子駅へ(その1)

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多摩川駅の下をくぐり、川の方へ向かいます。
左手は目蒲線の残存区間で東急多摩川線と名前を変えた線路が、地下から地上へ出てきて蒲田方面へ向かっています。
右側には、規模の小さな商店街があります。
しかし、通常の商店街と違って、あまり生活に関係ないお店が多いのです。
ある意味、田園調布よりも生活臭のしない街です。
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(和菓子屋さんに、飲食店、それに人形屋さんと、スーパーはないし、コンビニは駅構内に1軒のみです)

それは、ここが遊園地前の駅だったからだけではなく、おそらく古くから行楽地としての役割を果たしてきたからだと思います。
最近は全国的に数を減らしていますが、ここはパチンコ屋さんのない駅でもあります。
現在の東横線では代官山、田園調布、多摩川、妙蓮寺、東白楽、反町と6駅になっています。
これ、不動産屋さんが宣伝に使うそうです。
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(左;昔からある釣り餌屋さん 右;ブロンプトンで境内に行く場合はこちらを押し歩いて登ります)

商店街が切れたところ右側に神社の石段があります。
この神社が多摩川浅間神社(35.587604, 139.668703)です。
鎌倉時代の文治年間(1186年)のこと、奥州征伐に出陣した源頼朝のあとを追って、妻の政子がこの地まで来た時、あまりの富士の美しさに見とれてしまい、ここで浅間社(富士信仰)に対して戦勝祈願をしながら夫の帰りを待つことにして庵を結んだのがはじまりと、何かで読んだ気がします。
ところが神社の由緒書を読むと、政子が戦に向かう頼朝を追ってここまで来たのは豊島郡滝野川松崎(現在の地下鉄南北線西ケ原駅付近)に陣をはったときとあります。
鎌倉中~後期に成立したと推定される源平盛衰記(作者不詳)によれば、頼朝が豊島郡滝野川松橋(石神井川に架かる北区の橋で「崎」は読み違えか?)に陣を張ったのは、1180年(治承4年)のことです。
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(神社正面の石段。冬と夏ではだいぶ違います)

たった6年の違いとはいえ、ここは無視できません。
1186年に奥州藤原氏を滅ぼすべく出陣したのなら、既に前年(1185年)、壇の浦合戦で平氏を滅ぼして鎌倉幕府成立への布石を着々と打ちだしている頃の話です。
これに対して1180年というのは、頼朝が石橋山の戦いで平家方にぼろ糞に負けて、命からがら安房の国へ逃れ、そこから安房、上総、下総と平家政権に不満をもつ関東武士たちを糾合しながら、僅か2か月の間に一発逆転で形勢を覆し、4騎にも膨れ上がった大軍で、追討軍を差し向けた平家に対し、戦わずして富士川の戦いで勝利を収めた年のことです。
(旧東海道では吉原宿の入口に、史跡がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/37655909.html
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(左;本殿 右;目蒲線が分離する前は、ここに橋が架かっていて、多摩川台公園と往き来できました)

政子にしてみれば、奥州征伐の頃なら既に鎌倉で「御台所」と呼ばれていたはずで、わざわざここまで夫のあとを追ってくるとは、よほど心配性の女性になってしまいます。
しかし1180年であれば、彼女は伊豆山に潜伏していて、兄は戦死し夫と父、それに弟が行方知れずになっていて、我が身はお先真っ暗な時分です。
実際の数は分からないのですが、3人が真鶴岬から内房の勝山へ逃れた時には、僅かな伴まわりだけが従っていたらしいのです。
それが房総半島を反時計回りに巡って武蔵国に入った時には数万の将兵を従えていたわけですから、もしそれを知って頼朝を迎えに伊豆山からここまで出てきたのであれば、奇跡を目の当たりにして富士山にこの先の平家政権打倒を祈願したと推測されます。
これ、どこの資料をあたっても出てこないのですが、年号か出陣先の場所のどちらかが間違っているのではないでしょうか?
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(左;たけくらべの碑 右;食行身録の碑)

北条政子の守り神が富士だったとは初耳ですが、彼女はもともと伊豆の国出身で小さいころから富士を見て育ったのでしょうから、素朴に富士山を信仰していたのかもしれません。
しかし、富士信仰の起源について調べると、あの山は、今のように秀麗で目立つから霊峰として崇められるようになったのではないそうです。
むしろ、活火山としてしょっちゅう噴火する、怒り、荒ぶる神として畏敬の念で遥拝されてきたらしいのです。
つまり、遠くから拝む対象だったのが、休火山になってから六根清浄を目的にのぼって拝むようになったということです。
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(ちゃんと参拝を済ませてから展望台へゆきましょう。もちろん境内で自転車に乗ってはいけません)

政子がらみなのか分からないのですが、神社の正面石段右脇には、富士塚があります。
脇には富士講の指導者として有名な食行身録(1671-1733)の碑があります。
よく見ると揮毫は勝海舟ですからかなり少なくとも明治の石碑でしょう。
勝先生は洗足池のほとりに住んでいたといわれていますから、このあたりまでぶらぶらお散歩に来ていたのかもしれません。
ここで富士講について触れると終わらなくなってしまうので、それはまたの機会にしたいと思います。
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(鉄ちゃんが写真を撮っていることも多いのです)

さて、石段の下にブロンプトンを駐輪して歩いて登っても良いのですが、ここは裏にある急坂を押し歩いて境内までのぼってみましょう。
本殿にお参りしてから向かって左側にある展望台に出てください。
もちろん自転車は押し歩きでお願いします。
本殿の前にはたけくらべの碑があります。
ここは七五三や節句の時は両親に連れられた子どもたちが、神妙な面持ちですましているところです。
近隣でこれだけ景色のよい神社はなかなかないので、人気なのでしょう。
その時々で写真を撮れば、良い記念になるでしょうし。
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(こちらは冬の夕暮。このようにシルエットになります)

さていよいよ東横線随一の景勝としての眺望です。
本殿に向かって左側にテラスのようになっている、かなり広い展望台があります。
むかしだったら100円入れて時間を区切って覗く、双眼鏡が据え付けられそうな場所です。
正面石段を登ってくると、本殿より先にこちらに吸い寄せられてしまいますが、ちゃんと先にお参りを済ませるのがマナーです。
かつて現在の東横線を敷設した田園都市株式会社が『漫然と乗っただけで立派に観光電車として価値ある景勝地』と謳った面影を残すのは、おそらくここだけでしょう。
鉄道写真を撮影するために、カメラを構えている人もいますが、冬晴れの日に、ここから眺める富士山や丹沢、奥多摩の山々は、とくに夕方など息をのむほどの展望です。
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(こんな風景を見ながら17時のチャイム「夕焼け小焼け」が流れると、物悲しくなります)

線路を挟んで西側にある多摩川台公園の古墳群からして、古代もこのような景勝の台地上に人々が生活を営んでいたのだと証明しています。
また、自分が子どものころはこの展望台が夏場はビアガーデンとして営業していたと記憶しています。
夏でも川風が吹いてきて納涼に適した場所だったのでしょう。
(今でも夏季に曜日限定で行われることがあるようです)
東横線沿線をお散歩されるときは、他は省いてもここだけは押さえておきましょう。
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(こちらは冬晴れの早朝です)

神社の石段をくだり、右手の多摩川へゆくと、大きな石碑が建っています。
これは多摩川の治水記念碑。
むかし多摩川はあばれ川として有名で、流域は度重なる氾濫に苦しんでいました。
明治になり、築堤の計画が持ち上がったものの、日清・日露の両戦役で財源が無くなった政府内務省は、工事を延期してしまいます。
国をあてにしていてはいつ工事が始まるか分からないので、神奈川県は東京都と交渉を行うのですが、当時治水は国の事業ということで内務省の許可が下りずいっこうに埒があきません。
そこへまたもや大水害が起きて、とうとう堪忍袋の緒が切れた川崎市側の村々の民500人が、神奈川県庁に押し寄せる事態となりました。
大陳情団が編み笠をかぶっていたことから、アミガサ事件(1914916日未明)と呼ばれています。
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(富士山と全然関係ないのですが、右側のビル、2003年の白い巨塔で国立浪速大学病院役だったのです)

陳情といえば聞こえは良いのですが、それはお役所側からみた呼称で、事件の名のつく通り実際には民衆蜂起だったようです。
翌年神奈川県知事に就任した有吉忠一は、内務省にダマテンで県側に堤を築くことを決心します。
そのやり方たるや、「道路をつくりますよ」と方便して事業許可を取り、嵩上げをして築堤道路を建設してしまうというものでした。
当然、内務省は「これは県が勝手に行っている治水事業だ」と気付いた時から横やりを入れてくるし、彼岸に築堤されてしまうと今度は此岸が危ういというので、都側も工事反対にまわりました。
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(左;治水記念碑 右;丸子橋より一本下流に架かるガス橋。蜂起が起きたのはこの対岸です)

結局、有吉知事は政治生命をかけて粘り強く国や都と交渉しながら堤をなかば強引に完成させ、この工事が契機となって両岸における治水工事が1918年から1933年の15年にわたって国の事業として行われました。
この石碑は国の事業を記念してのものなので、裏に内務省の関係者の名前が並んでいるだけで有吉知事の名はありません。
ただ、いまも丸子橋下流の右岸には、このことを記念して有吉堤の名が残っているそうです。
また、事件から100年を経た2004年に、ガス橋近くの上平間八幡宮の境内に事件の記念碑が設置されたそうです。
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(左の写真は家にあった古い写真です。少なくとも昭和28年以前の写真だそうです)

丸子橋周辺の多摩川については他にも様々な話があるので、次回もこのお話を続けたいと思います。

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