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北鎌倉・東慶寺の温故知新なお墓めぐり

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(入口の左側に駐輪スペースがあるように見えますが、公式ではないので鎌倉市の公営駐輪場にとめて、円覚寺と一緒に見学しましょう)

北鎌倉にある東慶寺は駆け込み寺として有名です。
しかし、有名な方のお墓があることでも知られています。
岩波書店の社長さんのお墓があるからなのか、文筆業、それも哲学系の大家といわれる偉い先生のお墓があるのです。
実際に足を運んでみると、名前だけなら誰もが知っているような方のお墓なのに、苔むした小さな区画の中にちょこんと石が置いてあるだけで、「えっ?こんなに簡素なの」拍子抜けします。
 
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(アジサイの時期は混みますよ)

青山墓地や多磨霊園にゆくと、知名度のあるお方のお墓の中には「あちゃぁ、やっちまったか」と思わせるようなケースもあるのですが、ここのお墓はどれもこれもその正反対です、
おそらく、故人たちは生前に墓を豪華にすることを嫌っていたか、無意味なことだとおもっていたのでしょう。
誰かの歌じゃないですけれど、「私はそこにはいません」という感覚でしょうか。
そうであっても読書魔としては、静かな時期(お勧めは冬季です)に訪れて、永眠されている方々を偲んで対話してみるのもおつなものです。
 
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西田幾多郎先生。
人を欺くことがなぜ悪いのかといえば、それで起きる結果がどうこうというよりは、自分にウソをついて自らの人格を否定していることになるからだとおっしゃいましたよね。
その言葉に接してから、わたしはだました方が悪いとか、だまされた方が間抜けだとかそういう議論から一歩身を引いて、目的のためなら手段を選ばず平気でひとをだます人を、かわいそうな人だと感じるようになりました。
本人はアイツなら、あんな奴なら傷つけても構わないと思ってやっているのでしょうが、実は自分を傷つけていることに気付かない気の毒な人なのだなと。
そして、悩みで縮んでいる自分に気づいた時は、深呼吸をしてから自分は大きな世界の一部なのだと意識するようにしています。
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赤瀬川源平先生。
忘れるということもひとつの力であり、歳をとることはゆっくりと転んでゆくことだという趣旨の話に、どれだけ救われているか分りません。
まだまだ現役だの、アンチエイジングだの喧しい世の中ではありますが、人間の後半生とはひとつひとつの力を大いなるものにお返ししてゆくことで、角をとって丸くなってゆくことなのだと河原の石を見ながら思います。
「老人力」いよいよわが身もその入口に来ているのかもしれません。
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小林秀雄先生
ああ、先生もここにいらっしゃいましたか。
高校生のころ、背伸びして読んでいましたよ。
「考えるヒント」なんて、ヒントどころか迷宮でした。
読めば読むほど自分の考えがどこへ行くのかわからなくなってしまい、読書も汗をかく必要があるのだと、先生の作品から実感しました。
いま、実家の本棚をあされば何冊かは出てきそうですが、またわけが分からなくなりそうで怖くて実行していません。
だから、先生に対する本の批評だけは勘弁してください。
あのころ読んでいたのも、通学中にお向かいに座った女子学生に背表紙を向けて(そのくせ小心者のしっかりカバーして何を読んでいるのかわからないようにしていました)やせ我慢して読んでいたのかもしれません。
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 (よほど注意していないと見落としてしまうほどの小林秀雄先生のお墓)

鈴木大拙先生。
キリスト教でいう霊性は日本には存在しないと思っていた私に、日本人には日本的な霊性があると教えてくれたのがあなたです。
善を肯定し、悪を否定するのが倫理というものですが、善も悪も否定したのち、その善を善とし、悪を悪として受容する。
絶対愛の立場からは、善も悪もそのままにして、それをまるごと愛の中にとりこんでしまうというお話は、大いなるものを感じずにはいられませんでした。
ちっぽけな自己の主観やそれに対立する客観を一度すべて払い除け、双方が対立する以前の状態に戻すと、物事をありのままに見えるようになるというお話は、歴史と対話するうえでいまでも大事な指針になっています。
とはいえ、テレビの影響なのか、すぐに勧善懲悪にもってゆきたくなる誘惑につきまとわれております(笑)
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(正面が大拙先生、左が奥さまのベアトリスさんのお墓)

実は「古寺巡礼」「桂離宮」の和辻哲郎先生のお墓もあるのですが、最後まで見つかりませんでした。


 『「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。
 無限に新しいものを見いだして行くことである。
 だから観ることは直ちに創造に連なる。
 しかし、そのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。』
(『風土 人間学的考察』岩波文庫より)

この言葉って、「観光」の「観」の本質をついていると思いませんか。
旅とは創造的な営みなのです。
ちなみに、「光」には良いところという意味があるそうです。
「相手の良いところに新しい無限なものを見出してゆく」、これは教育の本質ともイコールということになるのでしょう。
次に行くときは見つけます。
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