今日は藤川宿についてご案内します。
(右;旧東海道は左へ細い道をすすみます)
東海道53次の中でも、かなり目立たないというか、地味な宿場だと思います。
名鉄線に藤川駅がありますが、通勤時間帯を除いては鈍行のみの停車駅です。
面白いのは近所の高校のテスト期間中のみ急行が日中臨時停車するそうで、名鉄線の利用者が交通弱者であることがよくわかります。
駅からみると旧東海道とは反対側の国道1号線に道の駅藤川宿が隣接していて、災害時の防災拠点の役割も担っています。
現代としての宿場のあり方を模索しているのでしょうけれど、旧東海道からみると一段低い場所に駅と道の駅があり、歩いているときは立ち寄る気にはなれませんでした。
国道1号線から分岐してすぐ、旧東海道(=県道)を藤川宿にむかって緩やかな右カーブを走ってゆくと、右側に「名古屋牛乳」の看板がかかったままの元牛乳屋さんがあります。
これ、愛知県の人は「懐かしい」といって歌を教えてくれます。
このマンボ、昭和のそれもかなり前の雰囲気ですね。
そしてお向かいの左側には「これより西 藤川宿」と書かれている棒鼻跡の碑と腰掛がある小さな広場があります。(34.908318, 137.229154)
棒鼻(ぼうばな)とは宿場の出入り口の境界のことです。
広重の版画に登場する藤川宿の風景は、まさにこの場所で馬献上(幕府から朝廷へ毎年8月1日に馬を献上する儀式)の一行を宿場の長たちが出迎えている場面です。
朝廷から幕府への勅使とは逆に、このような儀式もあったのですね。
棒鼻跡からは県道を左に水路に沿った細い路地を進み、60m進んだ先で突き当たって右折、また県道に復帰します。
本当にこちらの道で良いのか疑問に思うところですが、これが曲手の跡でしょう。
旧東海道に復帰して400mほどすすんだ左側にお城のような建物があって、「人形処」の看板がかかっています。
ここが粟生(あおう)人形店です。(34.910610, 137.224345)
もう、たたずまいといい雰囲気といい、このお店が旧東海道藤川宿におけるランドマークになっています。
(右;粟生人形店)
DANさんと東海道を西へ向かったとき、この店にお邪魔して奥さまから話を伺いました。
なんでも、初代は人形制作がどうしてもしたくて、お店も含めてご自身で立ち上げられたのだとか。
店内で展示されている人形はどれも一体が大きなもので、かなり迫力があります。
ひな人形の源流は、人形が子どもの身代わりになって厄災を引き受けてくれるという流し雛という行事にさかのぼると聞いたことがあります。
子どもの幸福を願う親の気持ちはいつの時代でも一緒です。
自分も将来娘にこんな人形を贈りたいと思いました。
(まだ実現していませんし、気味悪がられること必至ですが)
(左;明星院 右;銭屋)
さて人形店の脇の路地を入って3軒奥にあるのが、真言宗のお寺明星院です。(34.909994,137.224423)
ここはもともと舞木八幡宮の近くにあったお堂がはじまりとされ、願掛けや祈祷などをおこなう修験者たちの道場だったそうです。
ということは山伏たちの修行の場だったということでしょうか。
ご本尊は片目不動尊。
なんでも徳川家康が若いころ、西三河平定の戦いのおりに、このお不動さまが武士の姿に身をやつして家康に向かってきた矢を代わりに受けたことで助かったという伝説があるのだそうです。
きっと家康家臣団のなかにそういう形で命を落とした家来がいたのでしょう。
このあたりは次の岡崎が家康の本拠地ですから徳川がらみの史跡が多いようです。
(本陣跡とその先に見える景色)
旧街道に戻って粟生人形店の手前からの坂を少しのぼってゆくと、やがて道は平らになります。
左側には旧商家の銭屋があります。(34.911127, 137.222543)
(牛乳店の隣、グーグルマップ上には「藤川宿米屋」と表記)
この建物の特徴は、2階軒下部分の両脇に、火災時に類焼を防ぐための卯建がみとめられることです。
あれで火災が防げるのだろうか?
難燃材を使っているとも思えないしなどと考えながら先にすすむと、道はすぐに下りにかかります。
(左;本陣跡は広場になる前は第二資料館でした 右;これはもと旅籠でしょう)
そのすぐ右側に森川本陣跡(34.911384, 137.222178)があります。
いまは整備された公園になっていて、旧東海道から奥へ入ってゆくと、石垣の遺構が確認できるようになっています。
一段下がった場所に名鉄線と国道一号線が走っています。
そのすぐ隣が橘屋脇本陣跡。(34.911427, 137.221898)
こちらは武家風の門が残っており、奥の建物は資料館になっています。
(脇本陣跡)
脇本陣跡から100mほど坂をくだり、百田川という小さな川を宿場橋で渡った先の左側、伝誓字というお寺があります。(34.911427, 137.221898)
このお寺の境内の中、旧東海道に面した場所にかなり大きな石碑が建っています。
これが芭蕉の句碑です。
「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた はせを」
なんじゃこりゃ?字余り?と思って帰って調べたら、「はせを」とは芭蕉の古い呼び名のことでした。
大意は、「有名な在原業平のかきつばた(はい、かの有名な「からごろも…」ってやつです)があるが、ここ三河の藤川での名産はむらさき麦さ」くらいのものだそうです。
(左;芭蕉句碑 右;西棒鼻跡)
むらさき麦とは、文字通り穂が紫色をした麦のことです。
その昔は食用というよりは、観賞用、染料用に生産されていたそうです。
いったんは姿を消したむらさき麦でしたが、1994年に愛知県農業試験場の協力により復活栽培がかない、今では藤川町内、本陣跡下の畑にて栽培されているそうですから、季節によってはむらさきの穂を見ることができるとおもいます。
伝誓寺から250mほど西へすすむと右側に藤川小学校(34.912406, 137.217928)があり、この校門の先に西棒鼻跡の碑があります。
ここで藤川宿はおしまいです。
次回は旧東海道38番目の宿場、岡崎へ向かいます。
旧東海道ルート図 (本宿駅入口~知立駅入口)