「この歴史ある田園都市をみんなで美しく護りましょう」
そう駅前の池には標語のようなことばが掲げられ、小さな滝を囲むようにベンチが配されています。
田園調布は渋谷や横浜などターミナル駅を除けば、代官山や中目黒、自由ヶ丘を押さえて知名度が最も高い駅ではないでしょうか。
何といってもあの「田園調布に家が建つ」の街ですから。
バスに乗り換えるために子どもの頃から何度も降りているのですが、西口がいわゆる放射状の、テレビに出てくるお屋敷街なのに対し、東口はごく普通の駅前商店街です。
ただ、地形図を見るとわかるのですが、駅の周囲はどこへ行っても坂ばかりで、坂道嫌いとしてはあまり近寄りたくない駅でもあります。
西口の住宅街について簡単に説明します。
ここは1918年(大正7年)に渋沢栄一率いる田園都市株式会社がもと山林や畑地だったこの地を、宅地造成しはじめました。
その時は洗足池周辺も含んで計46万坪という広大な土地を造成したのだそうです。
洗足地区の分譲売り出しが1922年6月に先行します。
その三か月前に社内で鉄道部が分離独立し、目黒線の敷設をはじめました。
翌1923年3月11日、目黒から現在の沼部まで鉄道が開通し、調布駅としていまの駅が開業しました。
その年の8月に田園調布の分譲売り出しが開始されました。
そしてわずか1か月後の9月1日、関東大震災の日を迎えます。
ところが、田園都市株式会社はこの災禍を逆手にとり、次のような広告を打ったといいます。
『今回の激震は、田園都市の安全地帯たるを証明しました。
都市の中心から田園都市へ!
それは非常口のない活動写真館から広々とした大公園に移転することです』
当時の田園調布駅前は一面ススキの原っぱで、昼間はひばりが、夜は虫が鳴くど田舎だったそうです。
目黒からの鉄道もその年の内に蒲田まで全通し、目蒲線と名前を改めたものの、遅れがちで、一両ぽっきりの車両が5台で往復し、乗っている乗客も3~5人程度だったそうです。
(つまり路線名は目黒線から目蒲線に、そして目黒線に戻ったということになります)
そんな状況をさらに逆手にとって、こんな広告も打っていたとか。
『当社の電車は、漫然と乗っただけで立派に観光電車としての価値ある景勝地を走っています。
皆さんは、地震や津波のない鎌倉、逗子、大磯を手近に発見したわけです』
商魂たくましいですね。
なぜ田園調布が景勝地なのかについては、多摩川駅のところで説明します。
そのころの田園調布駅周辺は、今でいうつくばエキスプレスの茨城県にある中間駅あたりを想像してもらえばいいと思います。
鉄道の方は、そうですね、京福電鉄北野線あたりを想像してください。
ともあれ、宅地造成と分譲が早かったために、今の落ち着いた街並みがあるのですが、その昔はただのニュータウンだったのです。
なお、田園調布は世田谷区に属していると思い込んでいる人も多いのですが、正しくは大田区田園調布であり、大抵の人が想像する放射状の並木道は三丁目です。
世田谷区はその北側の外周部に玉川田園調布という名前があります。
前回ご紹介したスーパーDENENは、世田谷区に属します。
また南側に田園調布本町、田園調布南という住所がありますが、こちらはごく普通の住宅街です。
もしかすると、大正期から周辺の町名に「田園調布」を冠することが行われていたのかもしれません。
田園調布駅から、多摩川に向かって電車が坂を下ってゆく左(東)側に、テニスコートがあります。
ここにはかつて「田園コロシアム」という名前のスタジアムがありました。
最初は慶応大学野球部のグランドとして、そして1936年に主にテニスのスタジアムとして再オープンしたそうですが、自分が子どもの頃はコンサートやプロレスの興行も行われていました。
ちょうど線路側の壁に「田園コロシアム」と大きな看板が揚げられていて、車窓からもよく見えました。
コロシアム=コロッセオ=古代ローマの剣闘を想像した幼児の私は、そのネーミングとあいまって「あそこで人間同士の殺し合いが行われているのかな、田園調布って、実は貴族的な野蛮趣味の街ではないかしらん」などと勝手な空想を巡らせていました。
いまは相続の問題からか、住宅地がどんどん細分化されて昔の面影を失っている田園調布のお屋敷街ですが、写真の通り、訪れるのなら夏をお勧めします。
勢いよく生い茂ったイチョウ並木のもと、蝉しぐれの中を、日傘を差した着物のご婦人が風呂敷を抱えながら歩道を歩いてゆく姿が、この街の記憶として残っています。
(もしかしたらそんなTVのコマーシャルがあったのかもしれません)
こうした光景が似合うのは、宣伝の通り、逗子や葉山、鎌倉、大磯といった限られた街だと思うのですよ。
次回は田園調布駅から多摩川駅にかけてについて、ご紹介します。