おはようございます。
昨年9月から半年の間、予約投稿機能も使って毎日ブログを書いてきましたが、本日をもって毎日更新をやめようと思います。
正直なところを申し上げれば、作文がかなり負担になっていました。
ちゃんと本を読んで調べてから書きたいのに、読書量そのものも落ちてしまいましたし、自分のために書くことにしたのにアクセス数を気にして、これでは本末転倒だなと感じていました。
新しいことも始めますしね。
これからは2~3日に一度のペースにしようと思います。
だからというわけでもないですが、今日も独り言のような文章を書かせてください。
(西郷山公園の河津桜)
あまり詳しく言えないのですが、事情があって私が笑っていると「こんな状況でよく笑っていられるよね」と言われてしまう場面が過去にたくさんありました。
自分では気づきませんでしたが、もしかしたら卑屈な笑いを浮かべていたのかもしれません。
そうしたなかで、だんだんと笑顔を失っている自分に気がついておりまして、どんどん自信をすり減らしてゆく気分でした。
「そんなに深刻な顔をしても、何も解決しないですよ。だから何を言われても笑うのをやめないで」と諭してくれる人もいて、どんな顔をしたらよいかすら分らなくなってしまったこともありました。
そんな中で、昨日ご紹介したアッシジのフランシスコの祈りが、ずっと心の支えでした。
「神さま、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのある所にゆるしを・・・」
けれど、毎日何度祈ったところで、事態が好転することは決してなかったのです。
何がいけないのだろう。
真剣さが足りないのだろうか。
どうしてもエゴを捨てられないからなのだろうか。
しかし、ふと思い至ったのです。
私は祈りながら、自分の側でまだできることがあることに気がついていなかったと。
(なぜか突然「おはながわらった」という童謡を思い出しました)
一昨日、シスター渡辺の言葉を確認するために本を読み返していたら、引用されているあるイギリス詩人の言葉に目がとまりました。
『もしあなたが期待したほほえみがもらえなかったとしても、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。ほほえみを忘れた人ほど、ほほえみを必要としている人はいないのだから』
(Wilfred Owen “Smile, Smile, Smile” http://www.poetryfoundation.org/poem/248494 上記原典の下の方の部分をRobert Barrという英国作家が編集したものを翻訳した文章が日本では「ほほえみ」として紹介されています。)
改めて周囲を見回してみると、怒りで自分を支えている人や、ムカッとした顔をしながら笑顔を求めている人の多いこと。
私もいつしかそのうちのひとりに加わっていました。
そして今日、「私は笑って生きてゆきたい」という身近な人の願いをききました。
その言葉を黙って聴いているもう一人の人が、ずっとほほえみ続けているのにも気づきました。
そういえば、娘が赤ん坊のころ、無償で与えてくれる彼女のほほえみにどれほど救われた自分がいたことでしょう。
(子どもがぬいぐるみに、大人がアイドルに夢中になるのは、ほほえみを求めているからかもしれません)
そこで考えを改めました。
悲しい話をきくときも、思いやりの笑顔を絶やさないよう心がけよう。
たとえ「お前が笑っているのを見るとムカつく」と言われても、「馬鹿にしているのか」と逆切れされても、「そう見えたらごめんなさい」と素直に謝ろう。
静かに回れ右をしてその場を立ち去ってもいい。
けれども笑顔を消すのだけはやめよう。
たとえ顔が変な風に引きつったとしても、人にほほえみかけ続けてみよう。
以前仕事でしていたような営業スマイルとか愛想笑いにならないよう、心の中で「平和の祈り」を唱えながら。
なぜなら、自分もまた笑顔を渇望して彷徨う一人の仲間だから。
神もまた、祈りを通してわたしにそうしなさいと求めているのだから。
そう念じて、今日からまた一日をはじめようと思います。