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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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独り言―本当の謙虚さとは

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このごろ自分を振り返って、人間という生き物は、つくづく自己中心的にできているものだなぁと感じます。
だから、確固たる信仰を持っていなければ、すぐ「自分が神さま」になってしまうのではないかと危惧しているのです。
私は単純な方だから、自分の上に具体的に「人間を超えた存在」を置いておかないと、傲慢になってしまう自己をいつも感じています。
キリストに弟子入りして一番良かったところは、毎週神の前で膝を屈し、無力を認めることができるチャンスを与えられたことだと思っています。
そのおかげで、余計なことで他人と張り合う必要もないし、正反対の意見でも認めることができるし、他人の感情に巻き込まれるのを避けることができます。
前にシスター渡辺の書籍で「教育者とは」という話題がありました。
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教育というものは種をまくものであって、刈り入れは、後から来る人にゆずるものだと思います。
刈り入れの喜びまでも、自分の手で確かめようとするから、そこに自己満足的なものが生まれてくるのです。
 そうでなくして、教育者というものは種をまく人、暑い日中に田の草をとる人、こやしをかける人、水をやる人なのです。
しかも、収穫の喜びは他の人に譲って悔いない人。
 その人が、初めて本当の意味での教育者であり、指導者であるということができるのではないかと思います。
 (渡辺和子著「人を育てる」サンパウロ社)より
 
自らへの備簿として書きますが、いま現在私の抱く理想の教育者像は、朴訥として寡黙な、それでいて底抜けの優しさを秘めたお百姓さんです。
本当の指導者なら、いたずらに自己を卑下する必要も無ければ、ことさらに自分をアピールする必要はありません。
嫌われ役を、或いは先導役を引き受けて自認し、人前で過剰な演技をすることでもありません。
なぜなら人を育てるには、まず自分が自分を育てるという姿勢が大前提になると思うからです。
「育児とは育自である」といわれる所以です。
自らが育つ、学ぶというスタンスが、知識や洞察をひけらかしたり、成果を強調したり、他人を裁いたり、ましてや傲慢な態度をあらわにすることであろうはずがありません。
そうではなくて、自分が認められて受け容れられたいという自己中心性を乗り越えたところで、自分から相手を受け容れようと努力し続けることではないでしょうか。
それが本物の優しさであり、力強さであると思うのです。
力とは、自己の無力さを痛感したその先にあるものだと思います。
これからの自己の仕事は、何をするにせよ、農夫が大地をひと鍬ひと鍬耕すように、訥々と自己を手放して、地に足跡を残してゆけたらと思うのです。
そのためにも、日々の感謝と祈りは欠かせないと思っています。
 
『私たちは人に与えることによって、与えられ
許すときに許され
自分を捨てるときに、永遠を生きることができるのですから』
(アッシジのフランチェスコ「平和の祈り」より)

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(実る程 頭を垂れる 稲穂の如く 我も亦 斯くあれかし)

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