豊橋を渡った旧東海道は、渡り切った橋の北詰め(34.774306, 137.385290)ですぐ左折します。
一瞬豊川の右岸土手上の道を下流方向に向かおうか、かなり高い堤防の土手下を川に沿って走っている県道を辿るべきか迷うところですが、ここは後者を選びましょう。
前回も書きましたけれど、豊川って水量が豊富なためか、堤防もかなり高く造っています。
新幹線の車窓から見ていても、大井川や天竜川の河川敷は石がゴロゴロしていて、中州もたくさん見えるのに、豊川と豊川放水路はいつの季節でも両岸の間を水がなみなみと流れている気がします。
同じように、上流にダムのある河川なのに、どうしてなのでしょう。
もしかしたら、流域にやたら湧水が多いとか?
東京都近郊で同じ印象を持つのが、野川と黒目川です。
豊川と比べれば、ずっと総流水量は少ないのですが、他の河川が護岸工事や河川調整工事で、途中からの地下放水路(バイパス)や洪水に備えた調整池を設けているために、大雨の後でもなければかなり流量が制限されている感じなのに対し、野川と黒目川はいつも滔々と流れている感じがします。
あれは、中・上流域がいまだ都市化されていなくて、生きている湧水群があるからだと聞いたことがあります。
昔の武蔵野は一面畑でしたから、台地に染みた雨水は「はけ」と呼ばれる崖線の近くから、湧き水となって出ていました。
今でも有名なのが国立のママ下湧水群とか、国分寺の真姿の池湧水群でしょうか。
(その付近をお散歩すると、湧水で淹れるコーヒーを出してくれる喫茶店もありますよ)
ところが宅地化や都市化がすすんで台地の上がコンクリートで覆われると、染み込む水そのものが少なくなるため、湧水量も減じてゆき、やがては枯れてしまうといいます。
その分、地表を流れる雨水量は増して、集中豪雨の際にパンクしてしまうので、今は手段を講じて雨水を地表に染み込ませる努力をしているとか。
学校の校庭とか、道路のアスファルトにも、わざと目を粗くして水を通し、雨水を浸透させる性質のものが開発されているそうですよ。
そんなことを考えながら、都市の河川の様子を比較してみるのも面白いかもしれませんね。
旧東海道に話を戻しましょう。
左折して一本目の路地入口角に、「ういろう」を製造する和菓子屋さんがあります。
覚えていますか?
小田原宿でご紹介した「外郎売り」の口上を。
そして左折してから160m、二つ目の角にあるのが豊川稲荷遥拝所の石碑と石造りの常夜灯です(34.775434, 137.384209)。
ここから5.6㎞北に豊川稲荷(34.825261, 137.393318)があります。
稲荷というから神社と思いきや、さにあらず。
正式には妙厳寺(みょうごんじ)というれっきとした曹洞宗のお寺です。
ご本尊は千手観音で、開山時は真言宗だったのが、1439年の復興時に曹洞宗に改められました。
では、なぜ「稲荷」と呼ばれるのでしょう。
それはご本尊とは別に、荼枳尼天(だきにてん)と呼ばれる白狐の背に乗り稲束と宝を担いだ天女が鎮守として祀られているからなのです。
寺院に鎮守?と思うかたもいらっしゃるかもしれませんが、日本における神仏習合がすすむなかで、寺院の守護神として鎮守を祀ることは珍しくなくなっていったそうです。
たとえば、芝増上寺の山門を正面にみて右奥には、境内に熊野神社がありますが、あれが増上寺の守護神、つまり鎮守です。
明治になって神仏分離令によっていったんは撤去されたものの、土地の神さまとして復活する鎮守も多かったようです。
江戸時代、豊川稲荷は立身出世や盗難除けの神さまとして、地域だけではなく東海道の通行人からも信仰を集めました。
この遥拝所は、豊川稲荷まで立ち寄る時間のない急ぎの旅人のための、いわば「エスプレッソ参拝処」だったのです。
こんな例は、このあと伊勢神宮のケースでも出てきますので、ただの石碑でもぜひ立ち寄ってみてください。
え、でもどうやって拝むのかって?
曹洞宗なら静かに手を合わせてひと言、「南無」だけでいいのではないでしょうか。
なんといってもシンプルな禅宗ですから。
因みに東京赤坂見附の東宮御所脇にある豊川稲荷東京別院も、正真正銘の曹洞宗の寺院ですので、定例で朝の坐禅会とかやっているのだそうです。
私は前を通るたびにあれは神社だと思っていました。
橋から540m、下地交差点手前右側にあるのが、下地一里塚跡(34.777981, 137.381552)です。
このあたりから、旧東海道は徐々に豊川から離れてゆきます。
下地交差点から200m先右側に、黒格子の立派な商家が見えてきます。
これはもと山本商店(今は株式会社ヤマサン 34.779232, 137.379529)という元禄時代から続く菜種油を商っていたお店です。
菜種油は司馬先生の『国盗り物語』にも、若き日の斎藤道三が油商人して活躍する場面が描かれている通り、食用、灯火用として古くから用いられてきました。
今は大豆やお米とそれに関連する食材、そして油糟からつくる飼料などを扱う商社です。
まだまだ先ですが、知立の街に食堂を出しているみたいですので、寄り道してみるのも良いかもしれませんね。
その先、道は一直線に北西へ向かいます。
江川という小さな川を渡ったのち(34.785067, 137.374476)、道の両側に問屋らしきものが並び始めると、豊橋北詰から2180mで豊橋魚市場(34.789297, 137.369554)の前を通ります。
頭の中のイメージでは、豊橋市は内陸なのですが、実は海が近くて三河湾の再奥部までは、ここから3.5㎞ほどの距離です。
三河湾は干潟も多くて昔から漁業が盛んだったそうですが、近年は水深の浅い内海として、海洋汚染が急速にすすんでいるとききます。
次回は豊橋魚市場の前から、京へむかって進みたいと思います。