(昨日からのつづき)伊達騒動をかいつまんで説明します。
ときは1660年7月、徳川幕府は三代家光のあとを継いだ家綱の治世のことです。
仙台藩三代藩主伊達綱宗は、吉原で遊興を咎められて幕府より強制的に隠居させられ、後継の藩主にわずか2歳の伊達綱村が就きました。
しかし、この処罰には疑義が持ち上がりました。
遊興三昧とはいうものの、綱宗は二、三度家臣に連れられて吉原を訪ねただけであり、入り浸りになったという状況には程遠かったといわれています。
これは、綱宗を失脚させ後釜を狙う叔父で一ノ関の支藩藩主、伊達宗勝と伊達家を分割して勢力を弱める狙いをもった、幕府老中酒井忠清が結託してつくりだした陰謀ではないか。
そうであるとすれば、幼君の綱村も毒殺される可能性が高いと、仙台伊達藩は文字どおり家臣が二つに分かれて疑心暗鬼に陥ります。
(早朝の中目黒駅)
こうして家臣団が揉める状況が10年以上も続いた1671年3月、この件に端を発した伊達家重臣同士の所領争奪紛争を調停するため、酒井忠清邸で行われた審問の最中に、突然老身の伊達家重臣原田宗輔が、伊達一門の伊達宗重を惨殺し、他の重臣たちと斬り合いになるという事件が起こりました(寛文事件)。
しかし、状況に混乱した酒井忠清の家臣に斬られ、原田宗重をはじめ、審問で対立していた伊達家の重臣が殆ど死亡してしまい、ことの真相は全く分からないまま、このような家臣の分裂を招いた藩主後見人である一ノ関藩の伊達宗勝は改易、伊達家当主綱村は、幼くして事件にかかわりがないのでお咎めなしということで、事件の幕引きがはかられました。
(もちろん老中酒井忠清については、何も傷かつきませんでした)
(目黒川沿いのお店)
この事件は当時の人々に様々な憶測を呼んだため、歌舞伎の『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ=先代と仙台をかけています)や、山本周五郎の小説『樅の木は残った』の題材となりました。
後者は何度かテレビドラマ化されているので、ご覧になった方も多いかもしれません。
私も伊達騒動には興味がなかったのですが、正覚寺の三沢初子像をみて、小説を読んでみました。
その感想を少し書いておきましょう。
お話は寛文事件の主犯とされた、原田宗輔(原田甲斐守)を主人公に物語が進んでゆきます。
朴訥として自分の意見をあまり言わない主人公は、紛争をしている双方の家臣団から疑念をもたれ、突き上げを喰らって板挟みになる、重苦しい役どころです。
純粋にお家のためを思って提訴し、逆に黒幕に処刑されてしまう後輩や、藩主の毒見役になって身代わりに毒殺されてしまう家臣の死を看取っても、ひたすら耐えます。
(会長派と社長派が権力闘争する会社にも、一人や二人こんな中間管理職の部長さんがいますね)
「樅の木」の題通り、風雪に耐える樅の大樹が大好きな主人公は物語の中で、両親が上意討ちに遭ってのこされた遺児に、心の中でこんなことを呟きます。
(正覚寺境内)
『世の中に生きてゆけば、もっと大きな苦しみや、もっと辛い、深い悲しみや、絶望を味わわなければならない。
生きることには、よろこびもある。
好ましい住居、好ましく着るよろこび、食べたり飲んだりするよろこび、人に愛されたり、尊敬されたりするよろこび。
―また、自分に才能を認め、自分の為したことについてのよろこび、と甲斐はなおつづけた。
生きることには、たしかに多くのよろこびがある。
けれども、あらゆる「よろこび」は短い。
それはすぐに消え去ってしまう。
それはつかのま、われわれを満足させるが、驚くほど早く消え去り、そして、必ずあとに苦しみと、悔恨をのこす。
人は「つかのまの」そして頼みがたいよろこびの代わりに、絶えまのない努力や、苦しみや悲しみを背負い、それらに耐えながら、やがて、すべてが「空しい」ということに気がつくのだ。』
(山本周五郎著『樅の木は残った』より)
(三沢初子像 『先代萩』を上演する際は、歌舞伎役者さんたちがお参りするそうです)
こうした仏教的な諦観を持ちながらも、お家のために命を投げ出すことは、武士の本懐であるという観念にいささか疑念をさしはさんでいる主人公は、読んでいてもどこへ向かっているのか最後の方までさっぱり分かりません。
けれども、彼の武士道に対する思いは、何となく自分が思っている「侍の精神構造」の裏側に、光をあてているように思えます。
禅と武士道の話でたとえられる、死を従容としてうけ入れる侍より、土壇場で迷い、あるいは泣き言を発して死ぬ方がより人間らしく好ましいと思う主人公をして、『ひとは壮烈であろうとするよりも、弱さを恥じない方が強いものだ』といわしめるあたり、この小説はある程度人生経験が無いと理解できないなと感じました。
あまり詳しく書くとネタバレになってしまいますが、任侠物の映画などによくある、悪役から様々な嫌がらせを受けながら耐え抜いて、最後に報復を遂げる話の逆パターンですね。
主人公は暴力的な解決方法をいっさい選択せず、最後に敵の刃を受け、全ての罪を一身に引き受けながら死ぬことによって主家を守るというところが、このお話のユニークなところです。
(ちょっとだけキリスト的です)
小説を読む暇が無いという方は、ドラマの動画があがっていましたので、そちらをご覧ください。
あ、三沢初子はどうしたかって?
実は自分もいつ出てくるのかと思って小説を読んでいたのですが、ほんの一場面にしか出てこないのですよ。
どうも歌舞伎『伽羅先代萩』の方に「御殿の場」という名場面があって、そちらの方で初子にあたる乳母の役どころが、親の教えを守って死亡するわが子ともども幼君を守るということで有名らしいです。
もちろんこちらにも、別の場面で原田宗輔役が犠牲になる場面があります。
三沢初子は、実子の伊達家四代当主をお家騒動から守り、立派に育てた女性としていまも尊敬を集めているそうです。
現在、港区役所の建っている場所は、良源院といって仙台藩主が増上寺に参詣するときの支度所だった場所です。
ここに浅岡(浅岡の局=三沢初子のこと)飯炊きの井戸があります。
伊達騒動の際、わが子を毒殺から守るために、自分でこの井戸から水を汲んで炊事をしたという井戸です。
また、良源院には騒動で亡くなった原田宗輔の墓もあったということです。
(青葉城からみる仙台の街並み。小説の主人公原田宗輔の館は宮城県船岡ですが、川向うと、江戸にもお屋敷があったそうです)
江戸時代、大名の妻子は江戸の屋敷に住むことが習いとされ、幼い綱村も江戸に居ましたし、『樅の木は残った』も半分は江戸が舞台になっていますので、いつか機会を設けてこのお話の足跡をたどってみたいと思います。
今回は伊達騒動のお話ばかりになってしまいました。
次回は中目黒から祐天寺へと向かいます。