今月は毎日ブログ記事をあげてはみたものの…
正直言って、大変でした。
予約投稿をしていても、すぐに書き溜めた貯金が無くなってしまうし、書いているうちにスケジュールがどんどん狂ってしまうし。
ということで、来月からまた隔日基本に戻したいと思います。
ブログを生活の糧にするつもりもないですしね。
それに、ブログをやるようになってから、読書量が減ってしまっているのです。
まさかブロンプトンに乗ったまま本を読むわけにもゆかないですし、とにかく内容を把握すればいいや、みたいな速読もやりたくはありません。
本音はカフェでゆっくり読書としゃれ込みたいのですが、これまた時間がありません。
というわけで、このところ電車に乗ると車窓そっちのけで本を読んでいることが多くて、地理オタクで好奇心旺盛な自分としては、痛しかゆしなのです。
(銀輪よ、あれが街の灯だ なんちゃって)
夕食を終えて、ネットで調べ物をしているときでした。
ふと脚注にある記事の出典について検索を掛けていたら、ずっと前に絶版になって長年手に入れたくても入らなかった本が、この7月に復刊されていることに気がつきました。
「うわっ、この本復刊されていたの…」
(去年と今年でこういう経験は二年連続です)
そこで2つ隣の駅の本屋さんに在庫があることをこれまたネットで確認したところ、「在庫僅少」とのこと。
本の内容がかなり専門的なので、あまり刷っていないのかもしれません。
どうしてもいま欲しくなり、いざブロンプトンにまたがって出発。
本の内容がかなり専門的なので、あまり刷っていないのかもしれません。
どうしてもいま欲しくなり、いざブロンプトンにまたがって出発。
(あの河童、昼間通るたびにどうしてハリボテなのかと思っていたら、夜光るんだ―武蔵小杉 二ヶ領用水の今市橋にて)
時刻は20時くらいです。
実は最寄り駅に大きな大学があって、そこが一般教養中心の校舎のせいか、駅ビルの本屋さんも人文系の書籍についてはかなり充実しています。
その本屋さんまでなら自転車でも6、7分といったところでしょうか。
しかし、そちらはネットで在庫が検索できません。
もちろん、電話で問い合わせれば済むことです。
また、テナントビル自体2,000円以上お買い上げで駐車場は2時間まで無料で停められるので、ブロンプトンに出会う前の自分だったら、車で行っていたかもしれません。
でも、自分だけが確実にあると知っている本屋さんへ自転車で行く方が、何だかワクワクするのです。
本棚にお目当てを見つけると、昔別れた恋人に会ったような気になりますし(冗談です)。
(そのまま最寄りの入口から書店にむかえば、盗難の心配もありませぬ)
二つ隣の駅まで、いまやっている東横線に沿った道をブロンプトンでいっても、片道10分ちょっとです。
突然雨が降ってきても、電車で帰れるし、ブロンプトンだと駐輪場に停めなくても済みますし、大型ショッピングモールの中に入っているその本屋さんへ行くのに、一番近い出入り口に乗り付けて、あとは畳んでゆけるので、少し遠くの本屋さんだとしても、心理的な抵抗は全くありません。
こうして、食後の軽い運動もかねて、たった1冊の本を購入しに、夜の道を走るのでした。
(左;私は紀伊国屋書店さんが好きですが、こちらは典型的な郊外型の書架で、人文書より実用書や雑誌漫画類の方が売り場が広くて、本棚の充実度は最寄り駅のT書房の方に軍配があがります。これが二子玉の同書店だと、お受験本が充実しているのです。右;最近できた自転車レーンを帰ったら、僅か1ブロックで途切れてしまいました)
購入した本は岩下壮一著『カトリックの信仰』
昨年観たミュージカルの原作(http://blogs.yahoo.co.jp/brobura/38498788.html)を読んだ高校生のときに、神山復生病院については調べたので、岩下神父の名前は知っていました。
そして、社会人になってしばらくして、この本を一度は書店で手に取ったのです。
でも当時信仰のない自分には難解すぎる内容と、その分量に「これを読むのはとても無理」と感じて買いませんでした。
(文庫本サイズで955ページもあります
おそらく自分が読んだ文庫本の中で、1冊の分量としては最大です。
普通は上下巻に分けるのですが、分けられなかったのでしょうね)
内容はカテキズム(カトリックの公教要理)についてですが、なにせその時はカテキズムなんてお茶に含まれるカテキンの仲間かと思っていましたから。
(やっと手に入りました)
最近になって教会の講座に通い、若松英輔さんの本にも岩下神父が登場したりして、改めてこの本を探したのですが、四ツ谷にある専門書店も取り寄せ不可で、アマゾンで検索しても古本一つ出てきませんでした。
今年になってブロンプトンで神山復生病院に付属している資料館を訪ねたとき、ガラスケースに収められているのを見つけて、お願いして少し内容を見せていただき、「この本、いまは入手できないのですよねぇ」とぼやいていところでした。
しかし、遠回りしてきたものの、やっと自分もこの本を落ち着いて読むチャンスを与えられたのかもしれません。
まださわりを読んでいるだけですが、その哲学的な表現と内容に、のっけからしびれています。
(家でいちばん厚い文庫本と並べてみたのですが、あ、いやわざと「プロテスタントの反乱」と並べたわけじゃないですよ。これ以上分厚い本がなかったのです)
『いかに羊腸たる小径であっても、谷や滝の間を縫うて踏み馴らされた跡をたどって行けば、自ら絶頂を極めることができる。
もしも近道をしようなどという心を起こして不案内の山の中に迷いこんでしまうと、たとえ頂上は自分のすぐ前に聳えていて、まっすぐに登りさえすれば、一足飛びにそこまで行きつけそうに思われるけれども、思わぬところに絶壁があったり、または渉ることのできぬ渓流があったり、もしくは自分の身の丈を没してしまうような茅だの熊笹だのが繁っていたりして、せっかく近道しようと思ったものが、却って廻り道になったり、あるいはついに前進することができなくなって元の小径にもどって漸く目的の山頂に達し得るというようなことは、よくある経験である。』
(神山復生病院の記念館は建て替え中で、プレハブの仮設記念館に資料を一時移しているところでした http://www.fukusei.jp/rekishi/)
こんな風に、人間の道を山道になぞらえて、かつてそこを歩いた人によって道ができ、いまあることの意味を説いています。
うーん、しょっちゅう道に迷っている自分には思わず「あるある」と頷いてしまいます。
それに、論語や中庸でいうところの「道」を説明するのに、登山道を持ち出すあたり、鈴木大拙先生よりも自分には合っているかもしれません。
「羊腸たる小径」って表現も、旧道マニアの自分にはニヤリとしてしまいますし、何だかこの本を手に取るまでの経緯やブロンプトンで走る小径を暗示されているような気もします。
「まわり道 しても速いが ブロンプトン」なもので。
(岩下神父は病院の患者さんとともに、近くに眠っておられます)
読んでいてまたおすそ分けしたくなる話が出てきましたら、ブログでご紹介しましょう。