旧東海道の旅、今回はJR東海道本線高塚駅より500m南西にある立場バス停付近(34.687518, 137.672597)から舞阪宿へと向かいます。
昔の立場本陣があった場所に立札がたてられ、昔から大名など身分の高い人たちも休息する、立場としてはなかなかの規模を誇っていた場所のようです。
きっと西から江戸へ向かう場合は、浜名湖を船で渡ってきて浜松宿を前に容儀を整える場所だったのかも知れませんね。
(左;立場バス停前 右;立場本陣「浅田屋」前)ちょっと前に「超高速!参勤交代」という映画があって、江戸時代の大名が、宿場を通過する際は格式を重んじなければならないという描写がされていました。
つまり石高に応じた威儀を見せないと、宿場の役人をはじめ、街の人々から馬鹿にされてしまい、ひいてはその国の評判にもかかわるということになってしまうのです。
平和な時代に武士をやるのも、見栄の問題があって大変だったみたいですね。
何だか気苦労の多い話です。
(東海道沿いでよく見かけるのが「蔵」でした)歩いているときもこのあたりは景色が単調で、海も見えず、かといって山や丘が見えるわけでもなく、ひたすら南西へ向かう一本道を浜名湖目指して辿るというかっこうでした。
遠江とか遠州という言葉の「遠」は「気が遠くなる」の「遠」かと思ったくらいです。
実際に「遠江」(とおとうみ)の語源は「遠淡海」(とほつあはうみ)、すなわち京から見て遠い淡水湖、つまりは浜名湖のことを指しているそうです。
要するに、京都から見て遠いの「遠」だったわけです。
これに対し、琵琶湖を指す近淡海(ちかつあはうみ)が「近江」となりました。
しかし向かい風をついていくら進めども、目指す浜名湖は一向に見えてきません。
(左;篠原小学校前の松 右;長里橋)立場バス停から1700mほど進むと、篠原小学校のさきで「長里橋」という小さな橋を渡ります34.684320, 137.655420 ()。
用水路のような流れをのぞくと、京へむかって左(南)から右(北)へ水が流れています。
おかしいな、この地点だと海は左(南)側にあるのに、なぜ水の流れは逆向きなのだろうと思って帰って地図を見ました。
ここから100mほど北には東海道本線、さらに400m北には東海道新幹線が走っています。
(左;新幹線の車窓から見るとびうお橋と巨大ショッピングモール 右;愛宕神社)
新横浜からのぞみ号に乗り、浜松を通過して間もなく、車窓右手には大きな養魚場に囲まれた入り江が見えてきます。
これが、前回築山殿が殺害された佐鳴湖から流れ浜名湖にそそぐ新川の河口付近にあたり、用水路はここへ向かって流れているから、北流しているのです。
新幹線の車窓からは、エクストラドーズド橋という形式で背の低い斜材が特徴的なとびうお橋(34.691810,137.647421)が見え、その向こうにショッピングモールが見えます。
この景色が見えると間もなく弁天島のヨットハーバーが見えて、浜名湖の今切れの渡しを轟音と共にあっという間に通過してしまいます。
(二階窓とその周りのデザインが面白かったので撮影しました)長里橋から120mさき右側にあるのが、愛宕神社(34.684523, 137.653177)です。
由緒書によると「徳川家康公が鷹狩の折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり…」って伝聞ですよね。
司馬先生の小説にも「土地の古老によると~の言い伝えがあり」という話が多く出てきます。
本当はそういう話はちゃんと記録しておかねばならないのでしょうが、内容が史実なのか、単なる言い伝えなのか、定かでないからという理由で、どこかに留めておかないとどんどん消えて行ってしまうのでしょう。
せめてこのブログでは、出典が明らかなものはなるべく示そうと思います。
(馬郡観音堂跡碑 旧東海道から少し北へ引っ込んでいるため、注意しないと見落とします)
長里橋から1300m、坪井バス停の先で、旧東海道はやや右へとカーブして、進路を南西から真西に変えます。
その100m先の右側、小さなお堂の奥に柵で囲まれた石碑が見えます。
これが馬郡観音堂跡(まんごおりかんのんどう)です(34.683184,137.640341)。
これは、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて源光行が著したとも伝えられる「東関紀行」(別名「光行紀行」とも)に出てきます。
ちょっと描写が面白いので、現代語に直してご紹介しましょう。
(旧東海道沿いの古い家並み 左は元医院でしょうか。右は増築部分の屋根の残し方が面白いです)『舞沢の原という場所まで来た。
南北は広く果てしない様子で、西は海の渚がちかい。
錦繍を織りなすような秋の草花は少しも見当たらず、地面は白い砂ばかりで雪が積もっているようだ。
そこに松がぽつりぽつりと生えていて、潮風が梢に音を立てている。
また、みすぼらしい草ぶきの庵が所々にあって、おそらくは漁師などの家だろう。
どこまでも続く野原をしみじみと眺めながら、同行の旅人の語る話によれば、いつのころからかは不詳だが、この原っぱに観音さまがいらっしゃったそうだ。
(歩いた時は、豊橋に宿泊して6くらいに舞阪駅へきました 2007年11月23日)この観音像、お堂などは朽ち果てて、仮小屋の中で雨露をしのぎながら年月を重ねていたが、あるとき望み事があって鎌倉へ向かう筑紫の人が、その前を通りかかってお参りをした。
彼は、「もし鎌倉で望みがかなったなら、帰りに御堂を建立しましょう」と心の中で祈った。
はたして鎌倉で望んだ事が叶って、御堂を建立したところ、多くの人がお参りに訪れるようになった。
その話を聞き終わらないうちに、御堂にお参りすると、絶えることなくお香が焚かれて、風にのってその香りが漂い、仏前に供えられた花も色が鮮やかな様子だ。
願い事を書いた紙を扉の紐に結び付けると、海のように深い仏菩薩の慈愛がかなえてくださるといういわれをきいて心強く思い、次のように歌ってみた。』
「たのもしな 入江に立つる 身をつくし 深き志るしの ありと聞くにも」
(光行紀行 『東海道名所図会』中巻より)
(左;舞阪駅南入口交差点 右;松並木の入口)この話、どこかで聞いたような気がします。
神田川の成願寺で出てきた中野長者のお話にそっくりです。
また、13世紀の後半に、小夜の中山(どこだか分かりますよね)に出た化け鳥退治の勅命を受けて東へ下る源良政が祈りを捧げてみごと本願を果たしたとあります。
別にご利益を否定するつもりはありませんけれど、自己の願いが叶ったら、お礼参りにお堂を建てましょうみたいな神仏とのバーターは、自分は好きではありません。
それよりも、何か自分の無力さや身勝手さを深く悟る機会があって、自己が実は御仏に生かされている命であることを自覚したなら、自分のではなく、仏の願いに耳を傾けてみるといういわゆる回心の話の方が、よほど心強く感じます。
(これぞ「旧東海道にブロンプトンをつれて」という風景です)馬郡観音堂跡から1100mほど進むと、舞阪駅南入口交差点(34.683705, 137.628260)です。
そこから90mほど進むと、見事な松並木が現れます(34.683697, 137.626882)。
車道を囲むように2列で松並木が700m(234本)も続き、その外側にはちゃんと歩道も整備されています。
今井金吾先生が1974年に書いた『今昔東海道独案内』には、「この松並木もいつまで残っているだろうか」みたいに書かれていましたが、これほどに立派にまとまった松並木は、日本橋を出てから初めてかもしれません。
(左;松並木の歩道側には、広重五十三次の絵が彫られた小さな石碑が並びます 右;松並木の西端、新町交差点で国道1号線とクロスします)松並木の入口には「舞阪宿」の碑がありますが、実際に宿場に入ってきたなと実感できるのは、松並木の出口で国道1号線を越える新町交差点(34.683918, 137.618578)を過ぎてからです。
次回はこの新町交差点から、舞阪宿を見てゆきましょう。
旧東海道ルート図(浜松駅入口~二川駅前)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1c0fa9a276c470f9763d5ca0e44aa1a0