奥秩父最高峰の北奥千丈岳の頂上から見える山を、西方向から時計回りにご紹介します。
朝に大弛峠から東方向に登ってきたわけですが、逆の西方向にも尾根伝いに登山道があるわけで、朝日岳(標高2,579m)、金峰山(2,599m)、小川山(2,418m)と山梨・長野両県境の尾根が、日本の大分水嶺として続いています。
そのまま稜線をたどると、JR小海線にある鉄道最高地点と国道141号線を渡って八ヶ岳の赤岳(2,988m)へと登る県境尾根につながるわけです。
大分水界ですから、南側に落ちた雨水は太平洋へ、北側に落ちた水は日本海へと注ぎます。
大弛峠から登って来る時に、背後に見えていた尾根ですが、金峰山の頂上直下には五丈岩と呼ばれる遠目に見てもおおきな岩がのっているのですぐわかります。
山梨県側では「きんぷさん」長野県側では「きんぽうざん」と呼ばれるあの山は、あの岩を御神体にして蔵王権現が祀られています。
みてくれがミャンマーにあるゴールデン・ロックに似ているんですよね。
山の名前にも「金」がついているし。
なお、五丈岩は大きいので、岩登りに慣れていない人、高い所が苦手な人は登らない方が賢明だそうです。
ちなみに、大弛峠から朝日岳までは1時間、そこから金峰山まではさらに1時間半かかりますので、バスが8時半に大弛峠へ到着してすぐに歩きはじめても、金峰山に着くのは11時ちかくになります。
お昼を食べて帰りは下りなので峠まで2時間で戻ってきたとして、栄和交通の帰りのバス便が14:50と16:00ですから、早い便なら金峰山往復、遅い便ならついでに北奥千丈岳往復も加えてちょうどよい時間に設定されています。
金峰山の向こうに見えるのは八ヶ岳連峰です。
左(南)から、権現岳(2,715m)、赤岳(2,988m)、横岳(2,829m)、硫黄岳(2,760m)までがしっかり見えています。
そして視線を北方面に移すと、一番手前に見えるのが通ってきた前国師ヶ岳で、その先大弛峠から長野県側の川上村方面へ林道が下る谷の向こうに見えるのが、男山(1851.4m)と天狗山(1,882m)です。
男山は千曲川が湾曲する中央に八ヶ岳と対峙して聳えていて、車で登れる馬越峠から同じ稜線上にある天狗山を経由してゆけば、尾根伝いに頂上に立てます。
そのひとつ向こうの稜線にひときわ高く盛り上がっているのが御座(おぐら)山(2,112m)、さらに向こうの山が茂来(もらい)山(1718m)かすみの向こうに見える稜線のうち右側の最高峰が浅間山になります。
ズームで寄った写真では、浅間山の向こうに志賀高原の横手山(2,307m)まで見えていました。
さらに東方面には、甲武信ケ岳から雁坂峠方面の山も見えています。
御座(おぐら)山は、1985年8月12日の日航機墜落事故の際、夜かけて誤報で飛行機の墜落地点とされた山です。
実は救助の拠点となった上野村の楢原の南に、漢字違いの小倉山(1,244m)もあって、12日夕方から13日の未明にかけて情報が錯綜してしまい、一晩中500人以上も乗ったジャンボジェット機がどこに墜落したのか分からないという事態に陥りました。
実際には御座山から稜線を東へ辿った肩にあたる、高天原山(1978.8m)の北東斜面に落ちていたのです。
よく「御巣鷹山」っていいますけれど、あれは群馬県上野村側から見た手前の山の名前で、マスコミの報道がそのまま現場の名前になってしまったのです。
正確には高天原山の北東尾根です。
(激突地点とされる昇魂の碑のある場所は、標高1,567m地点)
私はその夏羽田空港に隣接したホテルでアルバイトをしていまして、該当機が飛び立った時間帯は、屋外プールの監視台にのって次から次へと飛び立つ飛行機を時折ぼんやりと見上げていました。
服を着た帰り際になって、大阪行きの日航機が行方不明になったらしいと聞きました。
何かあると家族が駆けつける場所になっていたから、バンケットでは炊き出しの準備をしていましてね。
それで帰宅してテレビをつけたら大騒ぎになっていました。
でも群馬に落ちたか長野に落ちたかわからないっていうのです。
あの付近は山だろうが谷だろうがバイクで走り回っていて、自宅に国土地理院発行の二万五千分の一の地図もばっちりあったので、翌日は休みということもあり、ニュースの情報と地図とを見ながら墜落地点は本谷林道の奥に違いないと予測がついていました。
だってテレビで言っている長野の御座山も群馬の小倉山も、人家に近いから落ちれば必ず目撃されます。
上野村でひと気の全くない谷は、十石峠への黒川沿いの谷と、ぶどう峠への中の沢、そして神流川源流の本谷がありますが、前の2つは信州への道が通っており、微量ではあっても通行する車や二輪車はいました。
しかし、行きどまりである本谷は地元の人でも用がない限り入らない場所で、群馬県側で目撃がないということは、そこ以外あり得ないのです。
あのあたりの山を知っている人なら常識ですが、碓氷峠から三国峠にかけての群馬・埼玉と長野の県境峠は、いわゆる片峠なのです。
片峠と云うのは、峠の両側で様子が全く違うのです。
関東山地側はものすごく深い谷が複雑に入り組んでいるのに対し、信州側は標高差もなく、峠を東から西に越えるとあっけないくらいすぐに耕作地や集落に降りてしまうのです。
碓氷バイパスでも旧碓氷峠(国道18号線)でも、横川から軽井沢に向けて走ると、群馬県側は上り坂も長く、妙義山塊のごつごつした岩山が目立つのに、峠を越えた途端、視界が開けてすぐに軽井沢へ出てしまいます。
だから、墜落した場所がある程度絞れているのだったら、長野県川上村から三国峠へ舗装路を9㎞走り、そこから徒歩で稜線上を北上し、高天原山なり御巣鷹山の頂上から支脈尾根ごとに班分けしたグループを降下させた方が、墜落現場に迅速に到達できるはずだと、事故のあった晩には地図を見ながら気が付いていました。
(当時でも稜線上には踏み跡はありました)
いっぽう、当時上野村の最奥に存在した本谷林道は、森林を伐採して運び出す軌道跡に設けられた、粗末な行き止まり林道で、林業が衰退してからはオフロードバイク乗りの中でも、廃線跡マニアでもなければ入らない道でした。
路肩や路盤は軟弱で、沢に架かる橋も貧弱ですから、大型車なんか入れません。
最奥の人家だった浜平鉱泉から林道終点までは、未舗装路で10㎞弱はありましたし、そこから道なき斜面をよじ登るといっても、頂上まで標高差が1,000mもあります。
しかも夏でしたからブッシュも生い茂って簡単には登れません。
飛行機が墜落するって、ラリーカーが林道から落ちるのと違って、谷底まで落下しているケースはまずないでしょうから、山の上の方から探した方が絶対に早いはずです。
げんにあの日の晩、埼玉・長野両県警のパトカーは標高1,727mの三国峠から炎を確認していますし、南相木村に遊びに来ていた大学教授とそのゼミ生、地元の中学生の三人が夜に三国峠から入山し、自衛隊がヘリから降下する以前の日の出前に事故現場に到達していて、何日かのちの新聞に、なぜ群馬県上野村側からのみの救助・捜索にこだわったのかと寄稿していました。
彼らはヘリから降下してきた自衛隊員に生存者と間違われたそうです。
朝日新聞の「日航ジャンボ機墜落事故」とか吉岡忍著「墜落の夏」とか読みましたし、クライマーズ・ハイも拝見しましたが、事故現場への到達がいかに困難を極めたか(下から行けば、幾十もある沢に入って、ひとつ間違えれば何も見えないまま見当違いの尾根に登るわけですから、現場が確定していない時点での、夜間における谷側からの捜索は手間から考えても非現実的です)を強調している割には、どうして誰も県境の稜線上から入ろうというアイデアに気がつかなかったのか、今でも不思議でなりません。
なお、墜落直前の目撃情報は長野県川上村で、なぜ稜線の向こうの高天原山北東斜面に墜落したのかずっと疑問に思っていました。
おおまかな航跡によれば、事故機はちょうど今いる北奥千丈岳のやや東の上空を山梨県側から長野県側へ稜線を越えて、右旋回しながらさらに群馬県側へと三国峠付近の尾根も越えています。
それまで、垂直尾翼の殆どを失ってダッチロールやフゴイド運動を繰り返しながらも、油圧系統が完全ダウンした機を30分はエンジン操作で上昇・下降させていたわけです。
墜落直前、現場よりもずっと高い県境の稜線を二つも無事に越えられたのに、その向こうのわざわざ谷の入り組んだ壺のような場所へ、しかもひとつ南にある尾根を主翼で削り取ってから落ちるなんて、この辺りの上空で最後の2分間の間にいったい何が起きたのだろうと思っていたのです。
15年もたった後、テレビで墜落機の軌跡をCG解析していて、それによると、2つの稜線を越えたのちに大きく右旋回し、右翼を下に回転しながら落下、その翼が手前の尾根に接触したことでエンジンなどが脱落し、殆ど裏返しの状態になって現場斜面に激突したことが分かって、やっと合点がゆきました。
最終局面の引き金は、高度を下げて姿勢を安定させようとオルタネイティブ(=油圧がやられていたので電動)で出したフラップが思うようには効かず、急減速・急旋回・急降下につながったようです。
まるでジェットコースターのひねりと回転を同時に加えながら逆落とししたような、というか、バランスの悪い折り紙飛行機が上を向いたのちにひっくり返りながら急旋回して壁に激突するような状態で墜落したわけで、生存者が「髪の毛が逆立つほどの急降下」と証言したのも頷けます。
こうしてその最期の軌跡が想像できる地点から事故現場となった山を見ると、その時の状況が立体的に見えるような気がしてきて、墜落したうえにあんな山の中にひと晩放置されていて、生きて還ることのできなかった人々は、さぞかし無念だったろうなと思うのです。
ああ、こんな場所まで来て日航機の事故を思いだしてしまうなんて、ちょっとおかしいですよね。
でも高天原山を見てしまうと、どうしてもボイス・レコーダーに残された、キャプテンの「頭上げろ」の連呼を思いだしてしまいます。
それに、遺族じゃなくてもこの峰々の上をあの飛行機が飛んでいた時点では、まだみんな必死に生きていたんだと思うと、やるせなくなります。
この後はブロンプトンでダウンヒルも控えているので、そこそこ北奥千丈岳山頂を退去します。
主脈尾根の分岐を左に10分で前国師ヶ岳を通過し、今度は二股を左に道を選択し、夢の庭園経由でくだります。
この名前は、苔などの地衣類が地表を覆う中に、巨石や灌木が巧みに配されたような庭園状の斜面を、下の大弛峠小屋のご主人が命名したそうで、なんともロマンチックな名前です。
私は麓の恵林寺を創建した夢窓国師(「国士無双」ではありません)からとったのかとばかり思っていました。
木製の立派な階段が設けられていますが、場所によっては下の駐車場が丸見えで、高いところが苦手な人は、下りは避けた方がよいかもしれません。
夢の庭園というよりは、空中木道とか、天の階段という雰囲気です。
鼻歌を歌いながら北奥千丈岳から大弛峠まで合計40分でくだってしまいました。
と、大弛小屋の前に「茶房大弛」と板切れが出ていて、特製うどん800円、カレー700円と写真入りでお誘いを受けました。
腹が減った…と、つい山小屋の扉に手を掛けてしまうのでした。(つづく)