前回の続き、旧東海道の旅は江戸から数えて43番目の四日市宿に入ってゆきます。
四日市という名前は毎月4日に市がたつのでその名前になったといいます。
町が形成されたのは鎌倉期ともいわれ、京滋方面から鈴鹿峠を越えた物や人が、ここから船にのったというのです。
宮~桑名間の桑名が七里の渡しといわれるのに対し、ここまでの船は十里の渡しと呼ばれていました。
すなわち、桑名宿とはライバル関係だったようです。
もっとも、個人や商人は十里の渡しを利用したのに対し、大名行列や公儀は安全を優先して七里の渡しを利用したといいます。
港としての歴史でいえば、四日市より南にある津の方がずっと古くて有名です。
安濃津(または阿野津)湊といえば、古代から奈良・京都の東の外港として、博多津、坊津とならんで日本三津に数えられました。
私なんかの年代ですと、社会科の県庁所在地あて問題で、三重県のひっかけ(正答は津)として四日市はよく登場していました。
その頃は公害問題とともに、同市の石油化学コンビナート群が全国的に有名でしたから。
前回は四日市市の北部にある海蔵橋(34.980040, 136.628445)を渡ったところまででした。
橋を渡ってすぐ左折し、土手から右手へカーブしながらくだってゆくのが旧東海道です。
ちょうど多度神社から国道と分かれた旧道の、川を挟んで対面、国道より一本東の道になります。
昭和を感じる商店がところどころに残っている道は、かつてここがメインストリートだったことを十分に感じさせます。
呉服店、布団店、茶舗、金物店などが並ぶ道をゆくと、左手に嶋小餅店(34.974692, 136.627118)という餅屋さんを見かけました。
1819~1829年にかけての創業という事ですから、200年近くたっています。
その先でまたもや三瀧屋文蔵という餅店(34.973646, 136.626571)を右手に見ます。
こちらは1688年~1703年にかけての創業なので、江戸期前の創業です。
そして海蔵橋から740m先の三滝橋(34.972940, 136.626362)で三滝川を渡ると、その70m先の街道に面した左側に、蔵を店舗に改造したなが餅笹井屋(34.971981,136.626145)を認めます。
(左折したらすぐ土手を下るように右折)
笹井屋の創業は1550年ということです。
なが餅という名前は、日永の里の「永」から創業がとってつけたといいますが、武運、家運がながもちするということで、当時はまだ浅井家の足軽身分だった藤堂高虎が、この餅を愛していたそうです。
なが餅の包みには高虎のエピソードが書かれています。
若い時分の高虎が、同僚の落合孫作と津の浜辺で将来の夢を語り合っていました。
高虎は、「夢はでっかく万石の大名になりたい」と話したのに対し、親友の孫作は「自分は篤実な千石取りの士分になりたい」と応じます。
やがて高虎が夢をかなえて伊勢一帯27万石の大名になったとき、孫作は馬の口取りとして高虎の目の前に現れ、高虎はかねての友情から孫作を家老にとりたてたという美談です。
藤堂高虎には餅に関して美談が別にあります。
浅井氏が織田信長によって滅ぼされた後、高虎はかつての主君の旧臣や、敵方織田氏の分家などに足軽として仕えたものの、いずれも長続きせずに出奔し、乞食同然の体で東国に仕官を求めて東海道吉田宿(現在の豊橋)まで来たところ、あまりの空腹に耐えかねて、街道沿いの餅屋で無銭飲食をしてしまった話です。
食べて冷静になった後で高虎は後悔し、餅屋の主人にお金がない旨を話して謝罪したところ、主人は怒るのではなく、「これ以上東へは行かずに、あなたの国(=近江)に帰って親孝行しなさい」と諭して路銀まで与えたそうです。
彼は餅屋の忠告に従い、西へ戻って豊臣秀吉の弟、秀長に仕えて頭角をあらわし、のちに主君を秀吉から徳川家康と乗り換えて、豊臣氏滅亡後は伊賀・伊勢27万石の大名になりました。
高虎が大名となったのち、参勤交代の途上で件の餅屋に立ち寄って、代金を支払うとともに、主人のかつての忠告に礼を述べたという結末ですが、上の話とどこか似ています。
高虎が旗さしものに三つ餅紋(紺地に白い丸が縦に三つ)を用いたのも、上の故事によるものとされます。
吉田宿での無銭飲食の話は、史実かどうかわかりませんが、高虎は生涯に八度主君をかえており、不見転(みずてん=お金のある旦那なら手当たり次第に身を任せる芸者のこと)の謗りを陰で受けていたようです。
事実、幕末の鳥羽伏見の戦いの際、藤堂家の津藩は徳川幕府の親藩大名として京都攻撃のために、その喉首にあたる山崎の淀川右岸(現在サントリーの工場がある辺り)に砲列を敷いていたのですが、大阪から京都へ攻めのぼる幕軍が不利と見るや、いきなり対岸の友軍に向けて大砲を撃ち掛けて、「さすが藤堂、藩祖(高虎のこと)のおぼえめでたい」と嫌味を言われています。
実際は中立を保っていたところ、新政府側の使者が京都からやってきて、追撃を命じられて反転を決意したみたいですが、友情の話といい餅の話といい、高虎が決して打算づくの人間ではなく、情に厚かったことを、誤解を解くために象徴しているのだと思います。
なお、司馬遼太郎の「関ヶ原」などを読んでいますと、当時の武士は足軽から大名に至るまで、実力のある主君にどんどん鞍替えするのが常識で、義や友誼に通じて敢えて貧乏くじを引く石田三成や大谷刑部(吉継)などは、奇特な人として描かれています。
もしそれが本当であるならば、同時代の黒田如水(直孝)、高山右近、小西行長、大友宗麟などは、実際にキリスト教の愛を実践するためには、世俗的な打算との間で、相当苦労したような気がするのですが。
餅に話を戻せば、四日市に餅屋が多いのは、歴史云々よりも「泗水」(しすい)の別称が用いられるほど、鈴鹿山脈からの伏流水に恵まれていることで、水が美味しいことと関係している気がします。
鈴鹿山脈の土壌が石灰質でカルスト地形という事も、名水の条件にかなっているのではないでしょうか。
ということは、名酒誕生の条件にも揃っているとおもわれます。
旧東海道に話を戻します。
笹井屋さんから180mさき、右手前角が月極め駐車場になり、左手前角がたばこや、左先は皮膚科の交差点が札の辻(高札をあげた辻 34.970443, 136.625524 )でした。
月極め駐車場が四日市宿でいちばん大きな本陣であった清水本陣跡(34.970564, 136.625478)です。
しかし、ほかの宿場とは違って何の目印も標識もありません。
今まで宿場では必ず本陣跡探しをやってきた身としては、四日市は大変困った宿場です。
やはり笹井屋さんから250mさき、左手に(株)フルカワ商店という農薬を売るお店、右手に黒川農薬商会という会社が旧東海道をはさんで向き合っています。
黒川農薬商会のある場所が、黒川本陣跡(34.969829, 136.625160)です。
ここも本陣跡の目印が全く見当たりません。
両本陣跡ともひょっとしたら電柱や道路のマンホール蓋に記してあるかとも思い確認しましたが、どこにもないのです。
後者はかろうじてそのお名前から分かるくらいです。
もしどうしても本陣の遺構が見たければ、国道1号線の北向こうにある、浄土宗のお寺、薬師寺までゆけば、寺の門が黒川本陣のそれを移築したものだそうです。
本陣は問屋場や継立場など、宿場の主要機能が集まった場所にあることが多く、その宿場の中心として、江戸期の街全体を推し量るうえでも重要なポイントなのですが、このように全く無視してしまうというのは、四日市市の観光協会は何を考えているのやら。
笹井屋さん330m先で国道164号線を横断します(34.969115,136.624881)。
国道1号線との中部交差点のすぐお隣ですが、信号機も横断歩道もついています。
かつての旧道は、すぐそばに新道が並走している場合、そちらの交差点に行って回り込まねば横断できないことも多いのですが、このようにきちんと近くの旧道にも信号をつけてもらえば助かります。
国道を渡って正面の路地をゆくと、一つ目の四つ角の右向かい角(旧町名南町の南西角)に、「すぐ江戸道」と彫られたけっこう大きな石柱道標が立っています(34.968634, 136.624404)。
そのすぐお隣には、東海道はここを曲がらず直進せよという標識がご丁寧に地図付きで表示されています。
ネットの中にはここを右折して国道1号線に出るよう指示しているサイトもありますが、正しくはこの次の角を右折します。
細かい所なのですが、この道標が何を示していたのかも「すぐ~」では分かりませんし、仮に別の道との「追分」(=分岐点)を示していたとしても、現在に至るまでに移設されている可能性もあります。
このあたり、このブログも図示はしていますが、きちんとした書籍や地図で下調べをしておいた方がよいと思われます。
旧東海道をゆく旅人には、親切なのか冷淡なのかよくわからない四日市なのでした。
国道164号線を横断してから二本目の四つ角を右折します(34.967801,136.624120)。
この交差点には何も標識がありません。
ここを右折せずに直進すると、三本目の四つ角はアーケードのある諏訪新道との交差点ですから、ここまで行ってしまったら明らかに間違いです。
こうしたところ、歩いていたときはよく悩みました。
右折してすぐ国道1号線に出るので左折し、諏訪神社前信号(34.967544, 136.623310)を横断します。
信号を渡ると正面に「おすわさん」と呼ばれて親しまれている諏訪神社を見ながら、斜め左手のスワマエ商店街に入ってゆきます。
諏訪神社は、鎌倉期に信州の諏訪神社から分霊を勧進し創建されたといわれています。
このあたり、国道1号線に対し旧東海道は斜めに横切っていたのだとわかります。
旧東海道ルート図(弥富駅入口~(近鉄)四日市駅入口(佐屋街道3/3)
次回はこのスワマエ商店街を抜けて、中央通りを横断し、日永の追分(=東海道と伊勢参宮道の分岐点)方面へと向かいたいと思います。