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旧東海道へブロンプトンをつれて 42.桑名宿(その2)

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(京町見附)

桑名宿の京町見附跡(35.063846, 136.693465)で左折した旧東海道は、南へ向かいます。
道の右側が吉備津屋町、左側が紺屋町です。
古い商家が両側に並んでいますが、漆器、仏壇・仏具店が目立ちます。
これは桑名盆という漆塗りの一種が江戸時代の桑名名産だった名残と思われます。
桑名盆の特徴は、顔料を混入した色漆で蕪を描くのが特徴だったそうですが、腕の良い塗師が集まっていたのでしょう。
270m先で県道(504号線)に出ますが(35.061806, 136.691642)、向かい側に桑名市ふれあいプラザがあるせいか、ここは信号機付きの横断歩道があるので渡ってそのままお向かいの路地へ進みます。
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信号から70m先、一本目の路地を右折して西へ、20m先の次の角を左折して南に向き直り、30m先の次の角を左折して今度は東へ向かいます。
ちょうど四角形の三辺をなぞるようにして進路を変えるのですが、その先に狭い道が無駄に広がっていて、さらに120m先で右折して再び南へ進路を戻します。
これが吉備津屋見附跡(35.061081, 136.690883)です。
ここには門が設けられていました。
のちにこの字が吉備津屋町から鍛冶屋町として独立したため、鍛冶屋門と呼ばれるようになったこの道路の屈折は、升形の典型です。
前にもふれたように、江戸期の最初に桑名の城下町を整備したのは徳川四天王の本多忠勝でしたから、武辺者らしく宿場町の防衛に手抜かりはなかったのだと思います。
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(吉備津屋見附)

再び南へ向かうと今度は右側にお寺が並びます。
手前から順に、教宗寺(浄土真宗本願寺派)、光明寺(西山浄土宗)、光徳寺(浄土宗)、十念寺(浄土宗)、寿量寺(日蓮宗)。
県道(401号線)に突き当たり今度は横断歩道がないので40m左手にある萱町交差点(35.056676, 136.690745)で横断して再び戻って旧東海道の路地へ入ると、やはり右手に長円寺(浄土真宗本願寺派)、報恩寺(〃)。
また、旧道からは見えませんが、東側の一本通り向こうの県道沿いには、浄土真宗本願寺派の法盛寺があります。
こちらのご本尊(阿弥陀如来像)は運慶の長男、湛慶の作と伝えられています。
すごい、一軒を除いて残り全部浄土系です。
どうりで、さっきの仏壇屋さん、金箔をふんだんに使った派手な仏壇が多かった気がするのです。
浄土宗や浄土真宗はお寺の内陣も仏壇も、極楽浄土をイメージするのでキラキラの飾りが多いのです。
もちろん、帰依するのは阿弥陀さまですから、称名は「南無阿弥陀仏」ですよ。
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(有名なお店がありますが、また今度)

浄土宗と浄土真宗の違いに、般若心経を唱えるか否かという点があります。
正確には真宗では唱える必要がないということらしいですが。
これは、般若心経が知恵の教えとして空を説く、いわゆる自力実践行なのに対し、浄土真宗は他力を本願とするからです。
もっとも、唱えてはならないということではないそうです。
私の実家の檀那寺は真宗ですが、人から「東西どっち?」と訊かれても答えられませんでした。
もちろん、正信偈なんて家で聞いたことなかったです。
(ひょっとしたらお葬式で唱えていたかもしれません)
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(光徳寺)

大人になってから興味が出て、親鸞聖人の生涯や歎異抄、浄土三部経の要旨を本で読みました。
おかげでのちに西田幾多郎先生や鈴木大拙先生の本を読む一助になりました。
自分は浄土真宗の門徒ですなんて言いながら、親鸞聖人が「私は父母のために念仏を唱えたことなど唯の一度もない」と追善供養を否定している意味も知らずに、南無阿弥陀仏の一言も唱えず、「先祖を敬うために墓参りを欠かさずしなさい」とか、「家族の外にある他宗門は信用するな(いや、家族ですら信用していない)」などと不信心丸出しのまま、仏前でやたら「私は徳を積んでますでしょうか」なんて話す人がいて、いやいや、そんな事の前に、聖人がなぜ阿弥陀の本願に依ったのかを知る方が先じゃない?と、当時は無宗教の私でも思ってしまったことがあります。
異教徒(笑)になった今だから、もっと彼の説く教えが感じられるような気がして、いま一度歎異抄を読み直してみようかなと思っています。
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(十念寺)

あれ、浄土系のお寺が並んでいるものだから、自分の仏縁を感じて親鸞や法然への思いが出てしまいました。
寺町にさしかかって三番目に登場する光徳寺(35.058368, 136.690395)には四日市の萬古(ばんこ)焼を創始した、沼波弄山(ぬなみろうざん 1718-1777)のお墓があります。
萬古焼とは、ペタライトを使用する陶器と磁器の中間の性質をもつ焼きもの(器)です。
萬古とは「永久」のこと。
耐熱性、耐水性に優れて堅牢なことから、この名前をつけたのでしょう。
現在、土鍋のシェアは全国一だそうです。
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(萱町交差点)

また四番目に登場する十念寺(35.058076, 136.689995)には幕末の桑名藩士、森常吉のお墓があります。
彼は藩主松平定敬が最後の京都所司代に就いたとき、彼の留守居役となり、護衛して箱館戦争まで転戦しますが、終結後に捕えられ、半年後に桑名藩に引き渡され、藩主の身代わりとして敗戦の責任を負って切腹しました。
戊辰戦争から士族の反乱にかけて、土方歳三や西郷隆盛みたいに最後まで戦って新体制に抵抗した人が話題になりますが、このように身代わりとして詰め腹切らされた人も、官軍、幕軍問わずにたくさんいたといいます。
どちらかといえば、組織に殉じるという意味で、これらの人の方が侍らしいと感じます。
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旧東海道は寺町を抜けてすぐに萱町で横断した県道(613号線)と合流しますが、それもつかの間で次の日進小学校前信号(35.055242, 136.690113)で右折します。
角にたばこ屋さんがあるところが、昔道です。
ここから伊勢湾を背に西へと向かいます。
140m先右側に「天武天皇御舊蹟」(舊蹟=旧跡)と象形文字のようにあらわされている石柱がたっていて、奥のお社が天武天皇社(35.056198, 136.688890)とあります。
天皇の名前が神社名なんて珍しいと思っていたら、彼をお祀りしている神社は全国で唯一ここだけだそうです。
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(日進小学校入口)
 
天武天皇ってお兄さんの天智天皇の陰に隠れがちです。
天智天皇は中大兄皇子として、大化の改新における乙巳=おっしの変(645年)で藤原鎌足とともに蘇我入鹿を討って改革を成し遂げた人です。
日本の歴史もご多分に漏れず、振り子のような経過をたどっています。
587年の丁未=ていびの乱でライバルの物部氏を滅ぼし、渡来人と彼らのもつ技術を保護し、その信仰する仏教勢力とともに拡大してきた蘇我氏の権力を、再び天皇に戻すクーデターだったのですが、その後中大兄皇子は百済再興をはかって朝鮮半島南部に派兵(白村江の戦い=663年)して敗退したり、都を近江大津(現在の近江神宮)に遷したりしながら、同年天智天皇として即位します。
近江神宮といえば、百人一首の一番の歌として詠まれる「秋の田の~」という歌の作者が天智天皇ですよね。
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(天武天皇社)

あれこれやと性急にやり過ぎて人心を疲弊させてしまった感のある天智天皇は、当初は弟の大海人皇子に譲る約束をしていたのですが、途中から第一子の大友皇子に譲位すべく心変わりしてゆきます。
ビッグ・ブラザーに物申す気もなかったのか(一説によると兄の天智天皇は死の床へ大海人皇子を呼び寄せて暗殺しようとしたともいわれています)、一旦は大友皇子に皇位継承権を譲って吉野に引っ込んだ大海人皇子でしたが、天智天皇が崩御した翌年、大友皇子を倒すべく兵を挙げます。
これが壬申=じんしんの乱(672年)です。
そのとき吉野を発った大海人皇子は、伊勢から美濃を回り、味方の兵を集めます。
その時に滞在したのが桑名のここだったといいます。
のちに大友皇子を倒して天武天皇として即位した大海人皇子は、都を飛鳥に遷し、人事を皇族でかためて専制君主政治を行いました。
しかし、神道を整備しながら道教にも関心を寄せ、最初の律令といわれる飛鳥浄御原令を定め、吉野に下野していたからなのか、仏教も手厚く保護をしたといいます。
また、美人の妻である額田王を巡って兄の天智天皇と三角関係になった話もありますが、額田王が美しかったかどうかも含め、江戸時代の創作だそうです。
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(矢田立場跡)

和菓子屋さんや糸屋さん、染物屋さんなど古い商家が所々に残る路地を進むと、日進小学校前交差点から850mの矢田町交差点(35.057274, 136.684183)で国道1号線を横断、そこから210m先、右側に半鐘のあるT字で突き当たります。
ここが矢田立場跡(35.057619, 136.681875)です。
桑名宿の京側の入り口にあたるため、ここには宿引小屋があったといいます。
今でいう宿泊案内所(さいきんネットのせいでめっきり見なくなりました)でしょうか。
「お客さん、湊の方へいっても今日はもう満室だから手前で泊まっておいきよ」なんてやっていたのでしょうか。
ちなみに、少し前の参勤交代をテーマにした映画にも描かれていましたが、西方向から大名行列が桑名宿へ差し掛かった場合、この矢田立場まで桑名藩の役人が出迎えをしたそうです。
ああ、これも旅行会社の海外駐在員が、日本からの公的団体や大型団体を現地ゲートウェイ空港までお迎えにあがるのとそっくりです。
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次回はこの矢田立場から四日市宿方面へ向かいます。

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