私はいま、お寺へ手伝いに行くと朝は掃除からはじめます。
仏道修行は掃除からってわけでもないですが、色々なお寺を観察して、人のあがるところはきれいにしておかないと、と思った次第です。
前に習慣でやっていた掃き掃除同様、続けるようになったらやらないと却って調子が狂うようになってしまいました。
それにこうして早朝に黙々と雑巾がけしていると、前の晩に読んだ本の作者と話している気分になれるのです。
聖書を読んでいればイエスさまやパウロと、「神の国」を読んでいれば聖アウグスティヌスと、空海伝を読んでいたらお大師さまと、「昨日のあの話だけれど…」ってな具合です。
こんな贅沢な朝はこれまでの人生でもなかなかありませんでした。
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だから、前にランニングして毎朝通っていたお寺のお掃除の方が、「感謝、感謝」って言っていた意味がよくわかるのです。
感謝は一方的なものではなく、双方通行なのだと。
ご本尊は弘法大師像ですが、信者でもない私にさえ、「ありがとう、ありがとう」と言っている声が聞こえます。
そんなお掃除タイムですが、いつも決まった時間に柴犬をつれて杖をつきながらお参りをする高齢の女性がいらっしゃいます。
祈りも習慣化するとやらない日は具合が悪くなったりするものですが、その人は雨の日も風の日も早朝の決まった時間にくるので、熱心なんだなと感心していました。
あるとき、犬だけがリードを引きずったまま本堂の濡れ縁で拭き掃除をしている私のもとに走って現れました。
わたしは犬の表情など読めないのですが、血相を変えて走ってきたように見えたので、『まさか彼女が入口あたりで転んでやしないか』と慌てて山門の方へ走ろうとしたところ、むこうから「まぁまぁ、あなたが来ているのが分かったらしくて、この子ったらお寺に入った途端に走って行ってしまったのよ」といいながら、元気に歩いていらしてくるのを見て、ホッと胸をなでおろしたこともありました。
前にも書きましたが、私は犬が苦手で柴犬といえどもちょっと引いてしまうのですが、どうも犬の方はお構いなしに「お友だち」として認識してくれているようです。
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時には掃除の手を休めて彼女と立ち話をします。
先日は、加齢で背骨が曲がって痛くて仕方がないとお話をされていました。
手術を勧められたけれど、歳も年だし不安もあるので、痛み止めを処方してもらって、お医者さんから本当に痛い時だけ飲むように指示されているそうです。
鎮痛剤も飲みすぎると薬物依存の一種に陥ると聞いたことがあるので、薬で抑えるのにも限度があるのでしょう。
しかし、その次に話された内容が印象的でした。
「年をとると色々なところに不具合が出て、体も思うようには動かなくなります。
痛みをがまんしていても、辛くて仕方がないこともあります。
でもね、痛くなってみないことには分からないこともあるのよ。
わたしは年をとって以前には分からなかったことをたくさん知りました。
年を取ってゆくことって悪いことばかりだとおもっていたけれど、そうでもないのよ。
だから、あなたもこの先いろいろあるかもしれないけれど、めげずに長生きしてくださいね」
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ちょうどある高齢の学者先生が人に手伝ってもらってまで自殺したニュースが流れた後だったので、この言葉は尚更記憶に残りました。
他殺には過剰な反応をするのに、自殺には一定の理解を示す人が多いと昨今感じるのですが、それはおかしいと私は思います。
命が唯一無二のものであるならば、自殺はれっきとした「自分に対する殺人」のはずです。
自分の命なんだから自分で始末しようと自由という考えは、「生かされている命」という立場を理解しない、傲岸不遜で投げやりな考えではないでしょうか。
「お前など死んでしまえ」と冗談や感情の高ぶりで言う人も、自他を問わずいのちを粗末に考えていることの表れだと思います。
わたしは自分の周囲のお年寄りを観察しながら、人間って人生の最後の方でその人の生き様が色濃く出るのだなと感じています。
高齢になると不満だらけになる人が多いなか、それは年をとったからという理由(本人がそう言い訳する場合もあります)ではなく、表面に現れていようがいまいが、もともと不平不満を心に抱えながら生きてきた人が、その態様をひどくしてしまって、自分で自分を持て余した挙句に誰彼となく辛くあたっているように見えてしまいます。
そして、人生のどんなことにも何らかの意味はあるとか、ひとは順風な人生よりも逆境から多く学ぶことができると信じる根拠は、やはり信仰にあるのだろうと確信しています。
つまりポーズではなく、自己を放棄し、自分よりも大きなものに対して自分を差し出す本当の術を持っている人は、もはや誇大化した自分自身のエゴイズムに苦しむ必要はないということなのだと思います。