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今昔横浜名所図会 横浜の歴史的建造物(馬車道界隈-その1)

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今回は、横浜市の指定する「歴史的建造物」のうち、馬車道駅界隈にある3つのビルをご紹介します。
 
横浜郵船ビル(日本郵船横浜支店)
 
所在地:中区海岸通3-9
構造・規模;RC3
建築年代:1936年(昭和11年)
設計:和田順顕建築事務所
施工:大林組
イメージ 1
(16本のコリント式列柱がならび、関内大通り(=関内駅方向)からのアイ・ストップにもなっています)
 
みなとみらい線の馬車道駅から新港ふ頭方面へ向かい、万国橋手前の海岸通り四丁目を右折したところから、海岸通りははじまります。
文字どおり、ここが海辺だったからその名がつきました。
いまでも建物の裏手は運河になっていて、屋形船などが係留されています。
イメージ 2
(柱を下から見上げるとこんな感じです)
 
日本郵船という会社は、三菱財閥の大元になった海運会社で、さらにさかのぼると、坂本龍馬のおこした海援隊のあとを引き継いだ九十九商会まで辿り着きます。
当初土佐藩の船を買受けて、海運業と商事業にのり出した岩崎弥太郎の三菱商会は、西南戦争を契機に当時海軍の主力だった薩摩閥に食い込んで、日本の海運業をほぼ独占していました。
イメージ 3
(重そうな扉ですね)
 
これを面白く思わなかった渋沢栄一郎や、三井財閥が、三菱に対抗すべく長州閥と結んで立ち上げたのが共同運輸会社です。
二社はサービス合戦、スピード合戦、ダンピング合戦と、なりふり構わぬ競争を繰り広げ、共倒れを心配した政府の仲介により、合併しました。
これが1885年に成立した日本郵船株式会社です。
イメージ 4

 
いま、郵船横浜ビルは一部が日本郵船博物館になっていて、展示のほかに1,500冊の海運関係書籍が閲覧できる部屋があります。
氷川丸と一緒に見学すると、両施設セットで500円になり、あちらにはないティーコーナーがありますので、休息に立ち寄るのも良いかもしれません。
駐輪場は正面向かって左側にあります。
 
 
横浜銀行協会 旧横浜銀行集会所
 
所在地:中区本町3-28
構造・規模:RC造4階
建築年代:1936年(昭和11年)
設計:大熊喜邦、林豪蔵
施工:清水組
イメージ 5
(4階は付け足し部分なのです)
 
ここには神奈川県立歴史博物館の設計者、遠藤於菟先生の作品である、アーチ窓をもったアールヌーヴォー様式の建物が建っていました。
それが関東大震災で倒壊し、いまの建物が四代目として再建されたわけです。
設計の大熊喜邦先生は現在の国会議事堂の大蔵省における建設責任者で、この建物もほぼ同じ時期のものです。
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(窓の上と下にあるのがテラコッタです)
 
4階はあとから増築したもので、戦後は8年間、進駐軍の将校クラブになっていたそうです。
装飾に使用されている「テラコッタ」とは、イタリア語で「焼いた(コッタ)土(テラ)」の意味で、素焼きの焼き物のことだそうです。
内部見学はできませんが、入った方によると、寄木のフローリング板に丸みを帯びた階段の木製手すりなど、外見とは裏腹にとても素朴でぬくもりのある感じがするそうです。
イメージ 7
(正面玄関車寄せ脇にある亀甲窓が面白いですね)
 
内部には横浜正金銀行の頭取を務めていた縁からか、高橋是清の「閑時自養神」(かんじみずからかみをやしなう=ひまな時は自分から精神を養いなさい)と「仁義為順縄」(じんぎじゅんじょうとなす=人の心は物差しで測ることはできない)という2つの書額が架かっているそうです。
私なら「閑時自委神」かな。
このビルの竣工は昭和117月。
高橋是清は同年226日に例のクーデターで亡くなっているので、この建物をみることはありませんでした。
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(昔数学の参考書でこんなマークがありました)
 
 
旧横浜生糸検査所附属生糸絹物専用倉庫(帝蚕倉庫)
 
所在地:中区北仲通5-57
構造・規模:RC3階・地下1階・一部塔屋付
建築年代:1926年(大正15年)
設計:遠藤於菟
施工:大林組
イメージ 9
(手前が事務所棟、右奥が倉庫C棟です)
 
日本は江戸時代末期に開国した当初、海外へ輸出できるものといえば、生糸とお茶くらいしかなかったといいます。
国家の近代化を急いだ明治政府は、養蚕業を外貨獲得産業と位置づけて重視、奨励しました。
先ごろ世界遺産登録された富岡製糸工場も、生糸の粗製乱造による品質低下を懸念して、政府が造った官営工場です。
イメージ 10
(少し前の赤レンガ倉庫と同じく、いまは囲われて入れません)
 
信州や上州で生産された生糸は中山道を、諏訪や秩父地方でのそれは八王子経由で横浜港へと運ばれ、この検査所を通して横浜港から海外へ輸出されました。
帝国蚕糸株式会社は、大正期の生糸恐慌の救済機関として設立されましたが、残った資産を活用するために生糸専用倉庫を横浜に設けることを条件として、建設資金を政府に寄付したうえで、国の予算によって建築されました。
イメージ 11
(天井直下のオーナメントにご注目)
 
屋上付近にみえるアルファベットは号棟名(ADの4棟)です。
それと、桑の葉を模したオーナメントが、生糸専用倉庫だったことを主張しています。
このオーナメント、見えませんが事務所棟屋上にも施されているそうです。
1970年代の航空写真をみると、桜木町駅の北側は操車場になっていて、うち一本の引き込み線が、大岡川を渡って倉庫の前まで伸びています。
高崎線や八高線、中央線や横浜線を使って生糸を横浜港へ運び込んでいた名残でしょう。
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(事務所棟。入口が良い雰囲気です)
 
いま4棟あった倉庫のうちの3棟までが解体され、C棟と帝蚕倉庫の最初の本社だった事務所棟だけが残されています。
ここは再開発によって集合住宅やオフィス、文化施設などが建設される予定です。
跡地に建った合同庁舎は、倉庫のオーナメントを用いて外壁も同じようにデザインされているものの、本物のような重厚感がありません。
耐震性の問題もあるかもしれませんが、古い建物が少なくなってゆくいま、過去の横浜の記憶は残せるものなら残してほしいです。
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(最近建ったレンガ風ビルディングとは存在感が違います)
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