今年ももうあとわずかですね。
自分のことを一応キリストの弟子だと思っているので、この時期の話題について書いてみます。
クリスマスを迎える前の今の時期を、教会では待降節(アドベント)といいます。
日曜のミサに参りますと、正面のろうそくが何本点いていないかで、ああ、クリスマスまであと何週かとわかるようになっています。
待降節には二つの意味があります。
ひとつはキリストの降誕(=クリスマス)を追憶するためのお祭りを準備する期間という意味です。
もう一つは、聖書に書かれている終末における、キリストの再臨に心を向けるという意味があるのです。
前者は、「もうすぐクリスマスだ、ワクワク」でもいいのですが、後者は世間から「オマエ、終末とか復活とか本気で信じているの?」と言われちゃいそうです。
しかし、それが真実か虚構かは問わず、待ったり心をそちらへ向けたりということ自体が大切だと思うのです。
信仰をもっている人にとっては、自分が神さまの方に向いているか否かを心静かに点検してみる頃合いとでもいいましょうか。
歳をとって、クリスマスをどこで誰とどのように過ごすかについて心配するのではなく、どんな気持ちで迎えるかに思いをめぐらす方が大事だと思うようになりました。
最近、お寺を手伝っているせいか、ひとの死がかなり身近にありまして、死ぬときに、いつどんな状況で死ぬかよりも、どんな気持ちで死んでゆくかの方が旅立つ本人には大切なのではないかと考えるようになっているのと同じことです。
たとえ孤独死をするにしても、うらみつらみを抱いたままこの世を呪いつつ死ぬよりは、感謝の気持ちをもって、なにか大きなものに抱かれながら死んでゆく方が何百倍もよいとは思いませんか。
こんな話になると、あのイエスと一緒に十字架につけられたバラバに思いを馳せてしまうのですが。
死といえば、巷では生きていても無意味だから死にたいという話をよく耳にします。
もちろん人間ですから、苦悩の中で死んだら楽になれるかもと想像することはあるでしょうし、それを口に出さずにはいられないときもあると思います。
事件のことを被害者と加害者の二元論でしか把握できない人にはそのような視点が持てないかもしれませんが、自分ひとりで死ぬのは怖いから、だれか一緒に死んでくれる人はいないかと人探しをする人と、生きていても意味がないと思い込み、自暴自棄になった挙句に人を殺めることに意味を見出してしまう人とは、生きがいを見出せないという点においては共通している気がします。
どちらも、「死んでしまいたい」とやけくそになりながら、その裏側で「生きている意味を見つけたい」と渇望しているところも似ています。
それでも「人はなぜ生きるのか(自分が生きている意味を見出したい)」という問いや願いにまともに向き合わず、「そんなこと考えたって仕方がないよ、ただ今が楽しけりゃそれでいいのさ、いざ死ぬときはその時になってから考えればいいんだ」と刹那的、享楽的に生きている人よりは、ずっと真剣に生きている人たちなんだろうなと感じています。
適当に答えを先延ばしにして生きてきた人が、いよいよ死を意識するようになってにっちもさっちもいかなくなり、頑なな自己の内に引きこもってしまうとか、或いは逆にあれやこれやと自己を振り回して周囲に迷惑をかけている例を周囲で見聞きするようになりましたから。
そんな人たちのことはともかく、生きていることの意味を探したい真面目な人たちにぜひ読んでほしい本があります。
神谷美恵子著「生きがいについて」(みすず書房)です。
精神科医として国立ハンセン病療養所の臨床医であった彼女が、社会からも家族からも見捨てられた患者たちについて、隔離された生活の中で自分の人生にどう意義を見出していったのかを、医師らしい冷静な見方で考察しています。
くわえて、らい病患者に限らず、死刑囚や失業者、老人など、社会的な生を失い苦しみの底なし沼に沈み、いちど魂を喪失した人たちが、どのように再び希望を取り戻していったのかを、様々な事例を引き合いに出し、哲学的な視点で描いています。
そういう意味では読んでいると著者から「あなたも私と一緒に生きがいを見つけてみませんか?」と誘われているような気持ちになる本です。
またそんな難しい本を引き合いに出してとしり込みせず、ちょっと立ち読みしてみてください。
『自暴自棄によって自殺、犯罪、嗜癖やデカダンス(※退廃的な生活のこと)に陥るひとびとを眺めてみると、そこにはいくつかの共通点がある。
そのなかで一ばん目立つのは我慢のなさと時間に対する不信の念である。
つまり、みな短気をおこしているのである。
どうせ自分なんかもうだめだ、と自分をみかぎり、事態もよくなることなどありえない、と世界と時間の可能性に対しても完全に見切りをつけてしまっている。
そして耐えがたい苦悩をたちきるため、まぎらわすため、「短絡反応」に出るわけである。
生きがいを失った人が、もし新しい生きがいをみいだしたいとねがうならば、その探求はまず一切をみかぎってしまいたいこの心、このはやる心を抑えることから始まらなければならない。』(同書「新しい生きがいを求めて」より)
これ、どこかで聞いたフレーズだなと思ったら、「自分を大切にすることとは」と語ったシスター渡辺和子先生の言葉でした。(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/38555683.html)
ちょうど12月ですが、状況は太平洋戦争に突入する際の決断や、戦争末期の神風特攻隊の誕生にそっくりじゃないかとも思います。
このまま座して二等国に転落するくらいなら、死中に活を求めて討って出る方がマシだと、勝算もない戦いに飛び込んでいった側面に目をつぶって、あれは自衛戦争だ、いや侵略戦争だったなんて今頃議論してみたところで、双方に対して集団ヒステリーの末の自殺戦争の間違いでしょと言い返したくなります。
この戦争にはもう勝ち目がない。
このまま時間稼ぎをしてみても一億玉砕の腹づもりで、それなら遅かれ早かれどうせみんな死ぬ。
戦場では武器も弾もなくなって、病死や餓死する兵士がゴロゴロ出ている。
だったら敵艦に体当たりしてお国のために軍神になるような死に場所を与えられた自分はどんなに幸福か。
その純粋な気持ちを馬鹿にする気分はこれっぽっちもありませんが、自国や自己を見限ってしまっている点では、共通している気がします。
みな死んでしまったら、国もないし戦争にもならないという当たり前のことが抜けてしまっています。
もちろん、中には開戦劈頭に敵を叩くだけ叩いておき、すかさず自国に不利な条件で講和してしまおうとか、敗戦後を見据えて若い人たちを一人でも多く救わねばと真剣に考え、一日も早く戦争を終わらせようと行動していた人たちもいたのは知っていますが、そういう人たちの考えは当時少なくとも表面上は「非国民」とか「利敵行為」と罵られて、密告の対象になっていたと聞いています。
私だって、その時代に生きていたら同じ雰囲気にのみこまれて憤る側にまわっていたと思いますが。
ひとつの提案として、神谷先生は『生きがいについて』においてプラトンの『国家』をひいています。
「不幸のうちにあっては、できるだけ平静を保って、感情を高ぶらせないことが、最も望ましいのだ。
ほかでもない、そうした出来事がほんとうは善いことか悪いことかは必ずしも明らかではないし、堪えるのをつらがってみても、前向きに役立つことは何ひとつないのだし、そもそも人の世に起る何事も大した真剣な関心に値するものではないのだし、それに、悲しみに耽るということは、そのような状況の中でできるだけ速やかにわれわれに生じてこなければならないものにとって、妨げとなるのだろう」
(プラトン「国家」(下)第604節 岩波文庫 藤沢令夫訳)
(夜明け前の川べりをブロンプトンで走る)
新しく生まれてくる何かを待ち望むとき、その前の暗く静かな時間をじっくりと感じ取った経験があるでしょうか。
わたしは夜明け前の闇の深さを推し量りながら歩きつづけ、やがて出てくる陽の光に言葉を失った経験があります。
心音だけが響く深夜の産婦人科の真っ暗な待合室でも、あれと似たような闇と向き合っていた気がします。
待降節の期間に心を向ける対象とは、それらと同じ自分の内なる暗闇の深さなのかもしれません。
また「時間がない」と焦る自分を静かに諫めてみることも大切だと思います。
(私の周囲には自分の不安をこちらへ向けてひたすら煽る人がいますが、無視を決め込んでいます。
お気の毒だとは思いますが、そういう人は自分の不安がどこから来るのか、考えてみる冷静さを持ち合わせていません)
「あたらしい生きがいを求めて」の章には、そのあと静かに待ちながら心をどう動かしてゆくのか、そしてどのように生きがいを見出してゆくのかについて書かれていますが、そこは本を買って読んで欲しいですし、話もながくなりましたのでこの辺りで終わりにしておこうと思います。
とにかく、自棄(やけ)をおこさず、時にはじっとしていることも人生には必要で、慌ただしい現代の中で、時間がないとか、このままではいけないなどと喚くのではなく、静かに忍んで待つことの大切さを教えてくれるのが、今の時期ではないかなと考えている次第です。