愛知県道115号(津島七宝名古屋)線と江川通りが交差する尾頭橋交差点から、佐屋街道(県道の方)を西へ向かいます。
交差点から520mほどで東海道新幹線をくぐります。
この後に新幹線をくぐるのは、草津川右岸の堤防を草津宿に向かってくだってゆく地点ただ1か所のみです。
そう考えると、お江戸日本橋を出てからこれまで何度旧東海道は東海道新幹線と交差したのでしょう。
今度別枠で特集しますか。
(尾頭橋交差点 向こう側に商店街の古いアーチがかかっています)なお、この場所は下り列車が名古屋駅へ向かって減速する地点です。
東京からの下り東海道新幹線は、新横浜と名古屋に現在は全列車が停車します。
ところが1992年のダイヤ改正において、東京を朝一で始発するのぞみ301号が名古屋に停車しないダイヤを組まれたことから、「名古屋飛ばし」という騒動に発展したことがありました。
(どことなく懐かしさを感じます)ときはバブル経済がまさにはじける直前のお話です。
上下合わせて300本以上走る列車のうち、早朝に設定された下りの1本のみに限った措置でしたが、新横浜を出た列車が京都まで無停車で、大都市の名古屋を通過するとはけしからぬ、と当時は(特に名古屋の財界で)大騒ぎになりました。
首都圏におけるサテライトの位置でしかない、しかも横浜市の副都心でしかない新横浜に停車して、中京経済圏の中心である名古屋を無視するというのはひどい、と今に続く名古屋VS横浜の端緒になってしまった感覚もあります。
(新幹線の高架が見えてきました)私は横浜在住で、旧東海道の旅を始めるまでには一度も愛知県がディスティネーション(目的地)にする旅をしたことがなかったもので、なんでそんなに騒ぐのだろうと思いましたが、名古屋の人たちにしてみれば我慢ならなかったのでしょう。
JR側の意図は東京大阪間の時短にあったようですが、それなら新横浜や京都を通過させても同じことですから。
なお、新横浜は一部ののぞみが同時期から停車するようになっただけで、今のように全列車が停車するようになったのは2008年になってからです。
(右の小さなガードは何でしょう?拡幅したのかな)新幹線の線路をくぐったあと、すぐ右折して200m先の線路際にあるのがナゴヤ球場です。
ナゴヤドームではなく、名古屋球場でもなく、あの「ナゴヤ球場」です。
今は改修工事によりスタンドの上の部分を撤去して小さくなってしまいましたが、むかしは新幹線にボールが当たるのではないかと思うほど、線路に近い場所まで外野席が張り出していました。
ナゴヤ球場でプロ野球の試合が行われていたのは1996年のシーズンまでです。
それ以前、夕方以降に名古屋を出る新幹線に乗ると、時折ナイターをやっていて、左翼席の上段に陣取った人たちの顔まで新幹線の車窓から見えるような感じでした。
いまは二軍の根拠地として練習場になっています。
(唯然寺)新幹線の下をくぐりぬけて70mさきの右側に、浄土真宗大谷派の唯然寺があります。
道路際の庭先にあるのが津島街道一里塚の石碑です。
津島街道とは、佐屋よりもやや北にある木曽三川の渡河点、津島湊の近くにある津島神社への参詣道のことです。
美濃路の清州から西へ向かう上街道と、佐屋街道に重なる下街道があり、上下街道併せてちょうど現在の名古屋中心部を起点にして津島神社へ往復するようなルートになっていました。
(津島街道一里塚石碑)津島神社の縁起はたいへんに古く、資料はないものの伝承ではスサノオの命が朝鮮半島の新羅から日本に渡ったのち、出雲、対馬を経て欽明天皇の時代(540年)に当地にその魂を遷座したといいます。
神話における御魂が鎮まるというのはどういうことなのでしょう。
落ち着いたということなのか、亡くなってのちお祀りしたということなのか。
スサノオの命は牛頭天王の神話と混淆して、祇園信仰の一種になるのです(八坂神社や八雲神社もその系統です)が、名古屋を中心に津島参詣の講中が数多く組織され、お伊勢参りと並んで参詣の対象になりました。
織田信長は交通の要衝に建つこの神社を崇敬し、家紋を同じ木瓜紋にしているほか、豊臣秀吉や尾張藩なども手厚く保護しています。
(歩いているときは、このような腰かけられる構造物は貴重でした。なにせ一日40㎞もあるくと文字通り足が棒になり、1~2分でも腰かけて足を重力から解放してあげたくなるのですが、ベンチがどこにもないのです)津島街道一里塚碑からまもなく、郵便局やバス停、交差点に「五女子」の名前が出てきます。
面白い地名だなと思いながら進んでいると、今度は「二女子」のバス停が目に留まります。
あれっ?四女子と三女子は見過ごしたかなと感じていると、それっきりになります。
これはもしかして五人の(美人…はいらないか)姉妹がいてというお話かと思いきや(そういう説もあるみたいですが)、どうも「よし」がなまって「にょし」「じょし」になったという説が有力です。
(わかりにくいのですが、右端の黄色い五女子バス停が電停型です。それよりも薬剤師のお名前をデカデカとあげる処方箋薬局がすごいです。この個人情報のご時世に…2007年当時)伊勢湾の最奥にあたるこの付近は、その昔川が海に流れ込む葦(ヨシ)の茂った土地だったから、そこを干拓して土地を開き、番号をふって行ったとか、良い土地の意味で「よし」とつけたのか、そんなところではないかということです。
それを裏付けるように、二女子のすぐ先で中川運河を渡ります。
松重閘門のところで出てきた中川運河です。
むかしは水運が盛んだったとありましたが、何を運んでいたのでしょう。
おそらく木曽三川の上流で切り出された木材だったのではないでしょうか。
それを裏付けるように、中川運河も堀川も直線的で、川岸には材木店が集中しています。
(福祉会館前にある佐屋街道の碑と説明。ここにもベンチがあって助かりました)ところで、この五女子のバス停ですが、2007年当時はどうみても「電停」の形をしていました。
電停とは路面電車の駅のことです。
そういえば、新幹線をくぐる際に不自然にガードが2つになっていました。
それにいま佐屋街道としてたどっているこの県道は、どことなく不自然に広いのです。
こういう場合、廃線マニアはまず路面電車が走っていたのではないかと疑うのですが、この電停型バス停は遺物にちがいありません。
帰ってから調べてみると、この道には1969年まで名古屋市電下之一色線が走っておりました。
その前は下之一色電軌鉄道という私鉄だったようで、中川運河の向こうにちゃんと「四女子電停」があります。
(五―二―四では順番がちがいますがな)
古い写真をみると、かなり長閑な風景の中を路面電車が走っていて、このころにブロンプトンで来たかったと感じてしまいます。
(中川運河を渡る長良橋から名駅方面を望む 名古屋は高層建築が少ないので、昔の新宿みたいに名駅がどこだかランドマークですぐにわかります)中川運河を超えた後、佐屋街道は両側に古めの商店街が連なるようになり、やがて烏森駅の下をくぐります。
駅は近鉄線のみですが、JR関西本線と名古屋臨海高速鉄道の線路がうえを走っています。
吉田宿(豊橋)から金山まで、旧東海道はだいたい名鉄本線に沿っていましたが、ここから四日市までは近鉄名古屋線に沿う形になります。
烏森から近鉄名古屋まで駅3つで7分なのですが、各停しか止まりませんので昼間の時間帯は一時間に3本程度です。
仮に電車を逃して次発を20分待つくらいなら、線路沿いにブロンプトンで走り名古屋駅の太閤口へ乗り付けてしまった方が、新幹線に乗って首都圏へと帰る場合は要領がよいかもしれません。
(2014年撮影のバス停。多少は電停を意識しているのでしょうが、古いまま残してほしかったです。二女子の文字が見えると思います)駅名は良く見ると「からすもり」ではなく「かすもり」です。
どうも自分が知っている地名や寺社名から推測して読んでしまうのですが、ご当地読みがあるので注意しなければいけません。
現地の人に何度間違いを指摘されても、いったん覚えてしまった読みというものはなかなか頭を離れるものではありませんから。
烏森駅から300m先の烏森郵便局付近で、佐屋街道は気持ち左へカーブして、ほぼ西方向に向かいます。
金山駅に近い美濃路との追分からここまでおよそ4㎞のあいだ、街道はほぼ直線でした。
ということは干拓地ではなかったかという推測も正しいのかもしれません。
(手前があおなみ線とJR関西本線-駅は無し-で、奥が近鉄名古屋線。右手が烏森駅になります)豊国通りを越えた佐屋街道は、急速に交通量を減らします。
まもなく格子戸を備えた比較的古い家並みが道の両側に連なり出すと、岩塚宿に到着です。
次回はこの岩塚宿と、庄内川をはさんでお向かいの万場宿から続けたいと思います。
(ずっと直線できた佐屋街道も、烏森郵便局付近で進路を西へ振ります)旧東海道ルート図(金山駅入口~弥富駅入口)
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=2f8e842b8bdd0b584f5bac60ba8df099