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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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くさむしり

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8月に入ったばかりの天気の良い日に、ひねもす草むしりをしました。
いつもは、色々なことを頭の中で考えながら、パソコンに向かったり、本を読んだりしているのですが、こうして一心不乱に草取りをするのも、悪くないと思いました。
台風が過ぎ去ったばかりで、風は強いものの、時折差し込む日差しは肌を突くように強烈で、たくさん汗をかいたけれど、それはそれで気持ちの良いものでした。
暑い季節に汗をかいて、体の中にある老廃物や悪いものを出すというのは、生理的にも適っていることだと思います。
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ただ、無心とはいいながら、ついつい昔読んだ本のフレーズを思い出してしまいます。
教育者というものは種をまく人、暑い日中に田の草をとる人、こやしをかける人、水をやる人なのです。』というシスター渡辺和子の言葉は、たしか『そして、収穫は他人に譲って悔いない人』と続いていたと思います。
こうした草取りのような地道な作業をせっせと行い、そして喜びは譲るということは、容易ではありません。
でも、時にはせっせと草むしりをしても、色々な事情で収穫を得られないことだってあります。
そんなとき、人はどういう態度でそうした状況に臨んだらよいでしょうか。
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以前、教育者を名乗る女性から、「トラは死んで革を残すというけれど、あなたは何を残したの?」と訊かれたことがあります。
そう問いながら、分裂と憤怒、憎しみと不満による混乱を残し、「もう愛想が尽きました」と捨て台詞を吐いて彼女は去ってゆきました。
わたしは「残すこと」という行為そのものに執着する人たちは、気の毒だと思います。
そういう人たちは、けっして自分を差し出すことのない場所にいて、人を批判しておきながら、自分を省みることはありません。
誰かを憎んだり嫉妬したりしながら、はたして別の誰かを大切にしたり愛したりすることができるでしょうか。
一方でどす黒い感情を抱えたまま、もう一方で優しい眼差しを持ち得るものでしょうか。
できるとしても、自分にだけ都合の良い愛情、自分には目隠しなのではないでしょうか。
目的を持つことは大切だと思います。
ただし、そこまでの道のりとかかる時間、それに進み方はひとそれぞれ。
皆が違う山道を登りながら、同じところに向っているのだと信じているのなら、他人を蔑んだり、他の人のやり方を馬鹿にしたりする必要は全くないと思うのです。
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ふと気が付くと、草むしりをしながら考え事をしている自分がいます。
こんなときは、すぐそばに不動明王様も(おっかない顔をして)立っていることですし、せっかくだから真言を唱えてみますか。
実際は心に仏を観想し、口に真言を唱え、手で印を結ぶのがお作法だそうですが、あいにく手はふさがっているため、心と口だけにしておきます。
本によると「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」ですが、冒頭は昔のヒーローものに出てきた呪文のようなものの、はて、どんなふうに発音したらよいものか。
そう思っていたら、以前ゲリラ初詣を敢行した成田山新勝寺のホームページに音声データが公開されていました。
真言はサンクスリット語の音写ですが、意味は「大いなる怒りのすがたを示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ」で最後の「カンマン」が種子(しゅじ)と呼ばれる呪文だそうです。
これを覚えておけば、今後旅の道端でお不動さまに出会うたびに唱えられます。
あ、もちろん「世の罪をのぞき給う主よ、われらをあわれみ給え」がベースなのですがね。






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