高野山参拝の帰りに、彦根城へ立ち寄りました。
彦根城自体は仕事で何度も行っていたので、おそらく某大河ドラマとのタイアップ観光がお盛んなのだろうな、と予測はしておりました。
昨年は真田信繁が主人公でしたから、同時代の武将として初代藩主の井伊直政(徳川四天王のひとり)は出てきましたし、今年はその二代前の直虎が主人公です。
行ってみたら案の定ナニソレ館なるものがオープンしておりました。
中はガラガラでしたが。
もういい加減かのドラマとの抱き合わせ商法も、コマーシャリズムへの便乗が過度になって、飽きられてきている感があります。
さて、彦根という場所は、関ヶ原の戦い前後の歴史を知っている人には、おなじみの場所だと思います。
戦いの前、彦根には今の彦根城から1.6km東に佐和山城があり、石田三成がこの地を治めておりました。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」といわれたように、彦根佐和山城は中世の山城としてはかなり堅固な完成形に近いものだったといいます。
三成が関ヶ原の戦いで敗北した3日後、城は東軍に寝返った小早川秀秋らの攻撃を受けて落ちました。
留守居として守っていた守備兵は3,000に満たず、しかも内部に裏切り者が潜んでいて講和直前の城に火を放ったうえ敵兵の侵入を手引きしたのですから、裏切り者続出の関ヶ原と併せて後味の悪い結末でした。
石田三成は、徳川家康の天下統一を阻もうとした武将として、江戸期を通して広くヒール役として人口に膾炙しておりました。
元禄・慶長の役(豊臣秀吉による朝鮮出兵)で三成は後方兵站部門の責任者をやっていたため、前線に出ていた武闘派の諸将と衝突することが多く、横柄なうえに権柄尽くな仕事をして、上への報告は讒言(注進とか陰口の類)ばかりとか、根っからの怜悧な官僚タイプだとか評判があまり良くなく、これが関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の諸大名が家康側につく原因のひとつになったともいわれています。
けれども、三成の性格がもしその通りで人望が全くなかったら、あれだけの軍勢を集められたかと思います。
彼が恨まれるようになってしまったのは、秀吉が憎まれ役を三成に丸投げしてしまったからではないでしょうか。
いわば、豊臣政権の官房長官役で、首相がやりたい放題やった挙句に死んでしまったものだから、政権の功罪のうちの罪の部分を一身に引き受けてしまった感があります。
その時代は自身の家名を保身するために調略という名の寝返り工作が普通だった時代に、最後まで太閤殿下の恩義を感じ、「義に生きた人」という評価もあります。
それを最初に言い出したのは、大日本史を編纂した水戸光圀といわれています。
司馬遼太郎先生の小説、「関ヶ原」のラストは、京都の東山に出家して隠棲する三成のかつての愛人を訪ねた黒田如水が、次のように彼を述懐する場面で締めくくられています。
『「不義のお人が」と尼は家康をさしているらしい。
「さかえていいものでしょうか」
「いや、ちがうようだな」と如水は首をかしげた。
かれが生きてきた経験によると、義・不義はことをおこす名目になっても、世を動かす原理にはならない。
如水のいおうとするところは、すでに豊臣家は世を担ってゆく魅力をうしなっている。
秀吉の晩年、もはや大名から庶民にいたるまでその政権のおわることをひそかに望んでいたにもかかわらず、あの男はそれをさらに続かせようとした。
すべての無理はそこにある、と如水は言いたかったが、しかし沈黙した。
かわりに「あの男は成功した」といった。
ただ一つのことについてである。
あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。
豊臣政権のほろびにあたって三成までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。』
(司馬遼太郎著「関ヶ原(下)」新潮文庫)
そして処刑直前に白湯を所望して、代わりの柿を痰の毒であるからと断ったエピソードは、彼が死ぬ瞬間まで精一杯生きたことを示していると思うのです。
石田一族が佐和山城とともに滅び、三成が京都六条河原で斬罪に処せられたあと、この地に入封した井伊直正は、佐和山に城をつくれば石田三成のあとを引き継いだことになるとして、別の場所に城普請を計画しましたが果たせず、彦根城はその子直継が幕府の支援を受けて築城しました。
一説によると、領民から慕われていた三成の領国経営とのつながりを、完全に断ち切るためにそうしたといいます。
そんな興味のある逸話に事欠かない石田三成の辞世の句は、以下のようなものでした。
「筑摩江や 葦間にともす篝火と ともに消えゆくわが身なりけり」
筑摩江?はてそれはどこでしょう。
筑摩と言えば信濃の中信にそのような地名がありますし、千曲川を筑摩川と書くことも昔はあったようです。
でも、石田三成は信州とはつながりがありません。
良い機会なので、彦根城へ行く前にバスの駐車場に併設されている観光案内所に訊いてみました。
すると、「さぁ、石田三成の辞世の句にそんな地名があるのですか?」というお答えで、お帰りまでに調べておきますとのことでした。
お城と庭園見学から帰ってきて、観光案内所の方はこのページのコピーをくださいました。
なるほど、「ちくまえ」ではなく「つくまえ」と読むのですね。
今は干拓されてなくなってしまいしたが、琵琶湖には内湖(うちこ;琵琶湖に接続する小さな湖)があって、その畔には古くから続く集落が点在していました。
筑摩江については、平安時代の歌人である藤原道信が次のような恋歌を残しています。
「あふみにかありといふなる三稜草くる人くるしめの筑摩江の沼」(後拾遺集)
(近江の国にあるかという、みくり草を筑摩江で手繰るように、つまり、なかなか根が見えず人を苦しめるというその水草のように、逢ってくれずに私を苦しめるあなたですよ。)
筑摩江は彦根城から見ると琵琶湖に沿って北西の方向、彦根ビューホテルの向こうの岬を回り込んだ、ちょうど米原の街から琵琶湖畔へまっすぐ出たあたりの場所のことを指すそうです。
いつか琵琶湖をブロンプトンで巡る機会があったら、ぜひ立ち寄ってみようと思います。