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旧東海道へブロンプトンをつれて 41.宮宿【熱田宿】(その2)

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(成福寺山門)

(前回からの続き)
岡部又右衛門家跡から北へ向かうと、140mほどで左側に白鳥小学校が見えますので、手前を左折して学校東側裏手にある成福寺(35.124891, 136.905382)に立ち寄ってみましょう。
ここには江戸時代後期に尾張藩の船頭だった小栗重吉のお墓と碑があります。
1813年、彼は督乗丸という120トンあまりの和船で部下の乗組員13名とともに食料を積んで江戸へ向けて知多半島南端の師崎港を出帆しました。
途中遠州灘で暴風に遭い、赤道の南をアメリカのカリフォルニア州サンタバーバラ沖合まで、484日も漂流した挙句、イギリス船に救助されます。
そのとき、生き残っていた船員は重吉を含め3名でした。
彼らはアラスカのシトカ、ロシアのカムチャッカ半島、択捉島、国後島を経由して野付半島から北海道に上陸し、根室、松前、江戸を経て尾張に戻りました。
帰国途中1名が病没したため、14人の乗組員のうち、生還できたのは2名だけでした。
彼の供述を口述筆記した船長(ふなおさ)日記は、当時の海外見聞録としても、漂流記としても、価値の高い作品といわれているそうです。
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(小栗重吉たちの供養塔)

成福寺の境内に小さな池があり、その真ん中に弁財船を基部にデザインした石柱がたてられています。
これは尾張に戻って藩からふたたび御水主(おかこ=船員)の職を得るものの、すぐにやめて残りの余生を死んでいった仲間を供養しようと決心し、書籍などを販売した利益を元手に重吉が建立した慰霊碑なのです。
よく見ると、下に全船員の氏名と死亡した日が彫られていました。
これは漂流中に重吉が錯乱せず、冷静に日記をつけ続けていたことを意味します。
いつ救助されるか分からず、仲間が次々と没してゆく中で、最後まで生きる望みを捨てず、しかも奇跡的に生還を果たしたら仲間の供養に残りの人生を捧げようと決心するなんて、並大抵の人物にできることではありません。
いや、むしろそういう経験をしたからこそ、凡庸な生活に余生を送ることを拒絶し、鎮魂に残りの生涯をささげたのかもしれません。
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(誓願寺山門)

白鳥小学校裏の成福寺から伏見通に戻ります。
岡部又右衛門家跡から350m北へ進むと、葵の御紋がついたお寺の山門が右にあります。
ここが浄土宗の誓願寺(35.126824, 136.906305)です。
山門脇には「右大将頼朝公誕生舊地」(舊地=旧地)の石碑が建っています。
境内の中に入ると井戸があり、これがもしかして頼朝の産湯の井戸かと思います。
それにしても、源頼朝って名古屋出身だったのですか。
鎌倉武士の頭領が尾張名古屋の生まれって…。
知らなかった。
頼朝のお父さんは源義朝(よしとも)で、正室の由良御前は実家が熱田なのです。
お父さんは京と関東を行ったり来たりするうちに相模国に地盤を持つようになりましたが、由良御前は三男頼朝を産むときには実家に帰って産んだから出生地がここになるわけです。
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(境内の中の井戸)

義朝は平治の乱で敗れて落ちのびた先で裏切りにあって殺された話はしました。
長男義平も捕らえられて京で処刑され、次男朝長(ともなが)も落ち武者狩りにあって死亡、三男の頼朝(当時13歳)もまた捕らえられて処刑を待つ身でしたが、平清盛の継母、池禅尼が断食、つまりはハンガーストライキまでして助命を嘆願したため、清盛も命だけはと彼を伊豆の地への流刑にとどめました。
しかし、ここで助命したことが仇となり、のちの源氏の旗揚げ(蜂起)から平家滅亡への伏線となるのですから世の中は分かりません。
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(北鎌倉の東慶寺にある天秀尼の墓)

時代が下って豊臣氏の大阪城が落城し、豊臣秀頼が自害したとき、徳川家康は残された遺児の国松(秀頼が側室に産ませた子ども)を執拗に探索して捕えさせ、わずか8歳にもかかわらず京の六条河原で斬首に処しました。
秀頼の正室であり、徳川秀忠の娘である千姫と、淀君(秀頼の母)の妹であり京極高次の妻だった初(常高院)が助命嘆願したにもかかわらず、国松については聞き入れられなかったのは史実のようです。
国松の妹は当時7歳でしたが、千姫の養女となり、仏門に帰依することを条件に漸く助命されました。
彼女は天秀尼(てんしゅうに)として、のちに鎌倉東慶寺の20世住持になります。
頼朝ファンの徳川家康からしたら、頼朝を助命したばかりに平氏が滅亡した故事の二の轍だけは踏むまいと思っていたのでしょう。
誓願寺の紋章が三つ葉葵なのを見て、そこまで考えてしまうのはわたしの深読みでしょうか。
その家康が幼いみぎりに人質生活していた屋敷が、頼朝誕生地から1㎞と離れていない場所にあるのも、なにか因縁めいたものを感じます。
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(旗屋町交差点)

さて、誓願寺から伏見通をさらに北へ進むと、まもなく旗屋町交差点(35.127892,136.906557)です。
交差点の下には名古屋市営地下鉄名城線の神宮西駅があり、JR乗り換えの金山まで2つ、中心部の栄まで6つ、名城公園までは駅9つです。
日本で初めての環状運転をする地下鉄で、総延長は世界第2位の長さを誇ります。
名古屋の市内を回るのなら、この環状線になっている名城線がカギになると思います。
旗屋町交差点は横断歩道があるので、伏見通を渡って反対側の歩道を南へ戻ります。
神宮の杜の際を170mもゆくと、車のおはらい専用と書かれた入口があり(35.126391, 136.907222)、向かって右脇に歩行者用の通路があるので、そこから押し歩きで中へ入ってゆきます。
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(伏見通対面から見る、車のおはらい専用口)

200mもゆくかないうちに、左側に本殿が見えてきます。
きちんとお参りする人は、前回書いたように正面南入口で一礼してからまっすぐ正殿に向って歩いてくるのでしょうけれど、このように脇からちょろっと入ってクイック参拝できるのもブロンプトンの良いところです。
熱田神宮の本殿(35.126692, 136.908646)の大きさはかなり立派ですが、やはり神社なので簡素です。
しかし、実は尾張の国の三宮なのです。
お正月には伊勢神宮よりも初詣客が多いのになぜと思ったら、前回も書いた通り、創建のいわれが日本武尊の東征の際、当地の姫と結婚して草薙の剣を彼女の手元に残したという故事からきているので、三種の神器のうちのひとつが置かれているとされて、伊勢神宮に次いで別格になっているのだそうです。
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(こちらは正面の鳥居)

草薙の剣は旧東海道の清水と静岡間で出てきました。
賊に襲われて火攻めにあったとき、この神剣をふるうと風向きが変わり、逆に敵が焼け死んでいったというお話でした。
あの剣は、たしか正史では、平家滅亡のおりに壇ノ浦に沈んだままだったような気がします。
ほかに八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とあわせて三種の神器ですが、これが現在どこにあるのかは誰も分からないそうです。
当然に歴代天皇が継承してきたとされるものですから、皇居の中にあってしかるべきなのですが、なにぶんにも天皇陛下本人でも見ることを許されていないため、誰も実物を見たことがありません。
箱ぐらいはあるのでしょうか。
それとも箱すら誰も見たことがないとか。
はてさて、誰がどのようにして管理しているのやら。
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(熱田神宮本殿前)

本殿の手前、やや東側に信長塀が残っています(35.126692,136.908646)。
この塀は、桶狭間の戦いのおりに戦勝祈願し、見事今川義元を討ち取ったお礼として、織田信長が寄進したものです。
よく見ると土と石灰を油で練り固め、瓦を重ねたかんり手の込んだ塀です。
信長というと、石山本願寺攻めや叡山焼き討ちに代表されるように、古い宗教的権威については良心の呵責なき迫害を行う人物というイメージがありますが、ちゃんとお礼参りしているのですね。
彼の場合、信仰云々よりも経済的な事情が最優先できわめて合理的な考えの持ち主という評価もありますが。
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(信長塀)

熱田神宮参拝を終えたら、伏見通へ戻りましょう。
佐屋街道はこのまま伏見通を北へ進みます。
次回は佐屋街道の宿場、岩塚宿を目指します。
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旧東海道ルート図(知立駅入口~金山駅入口)
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=451c126d388a124117f3f8b94d995a6f&mode=silve



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