ブロンプトンに日常乗っていると、ふとした時に空を見上げることが多くなると前に書きました。
それは、自転車という乗り物が、どこでもとめることができて、周囲を見渡せることができる乗り物だからだと思います。
オートバイも似たようなことのできる乗り物ですが、自転車はオートバイ以上に自由です。
なぜなら、見たいものにあわせて、場所を好きに移動でき、停車しても歩行者や他の車両の邪魔にならないからです。
折りたたんで持ち物のようにできるブロンプトンならな、普通の自転車よりもおさらです。
たとえば、ゆっくり空を見上げたい時など、神社などの階段の中ほどに自転車を畳んで置いて座ることもできます。
だから文庫や新書を持っていれば、お気に入りの場所にて、どこでも読書ができるのです。
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先日夕方に夕食を食べていたら、夕立がきました。
お店の人が慌てて外に出していた幟旗を片付け始めたからです。
わたしも断ってから、同じように店の前に停めていたブロンプトンをおりたたんで、店内の隅に置かせてもらいました。
お店の人が、しげしげと眺めて「ずいぶん小さくなるのですね」と驚いています。
しばらくすると雨が上がったので、ブロンプトンを開いてお店を後にしました。
店を出る際に「ごちそうさまでした」というと、「ありがとうございました。また来てください」と返されました。
ブロンプトンをつれていると、こう言われることは多いのです。
西の空は日が傾いてきていますが、季節柄なのかまだ日差しを保っています。
東の空はいま激しい雨を降らせた雲が去っていくところで、濃いグレーの雲が天空を覆っています。
ふとみると、東横線の車庫の向こうに、ほぼ完ぺきな半円の虹がかかっていました。
私はもっと虹をよく見たいと思い、普段は通らない丘陵の斜面に設けられた公園にブロンプトンを乗り入れ、えっちらおっちらとのぼってゆきました。
小学生の頃、虹の正体を確かめたくて、こんな風に坂道をのぼって見晴らしの良い場所へと急いでいた自分を思い出しながら。
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虹は太陽光が、プリズムの役割をする降雨による雨滴にあたると屈折、反射しておきる気象現象のひとつであると小学生で習いました。
それが中学に入ると、虹は神さまと人間との間の契約の印であるということを本で読みました。
最初に聴いたときの印象は、誰もがそうであるように「荒唐無稽な話だな」でした。
そのあと、多少知恵がつくと「ホメーロスのような叙事詩みたいなものかな」という印象でした。
旧約聖書の最初、創世記の6章あたりから、有名な「ノアの箱舟」の話が登場します。
主は地上に悪がはびこり、人々が悪いことばかり心に思い計っているのを見て、人間を作ったことを後悔します。
そこで、自分が造った一切のもの一切を地上からぬぐいさろうと決心しました。
しかし、ノアにだけは家族ばかりでなく、地上の命あるものすべてを箱舟にのせて難を逃れなさいと啓示します。
大洪水のあと主はノアに次のように言うのです。
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それは、自転車という乗り物が、どこでもとめることができて、周囲を見渡せることができる乗り物だからだと思います。
オートバイも似たようなことのできる乗り物ですが、自転車はオートバイ以上に自由です。
なぜなら、見たいものにあわせて、場所を好きに移動でき、停車しても歩行者や他の車両の邪魔にならないからです。
折りたたんで持ち物のようにできるブロンプトンならな、普通の自転車よりもおさらです。
たとえば、ゆっくり空を見上げたい時など、神社などの階段の中ほどに自転車を畳んで置いて座ることもできます。
だから文庫や新書を持っていれば、お気に入りの場所にて、どこでも読書ができるのです。
先日夕方に夕食を食べていたら、夕立がきました。
お店の人が慌てて外に出していた幟旗を片付け始めたからです。
わたしも断ってから、同じように店の前に停めていたブロンプトンをおりたたんで、店内の隅に置かせてもらいました。
お店の人が、しげしげと眺めて「ずいぶん小さくなるのですね」と驚いています。
しばらくすると雨が上がったので、ブロンプトンを開いてお店を後にしました。
店を出る際に「ごちそうさまでした」というと、「ありがとうございました。また来てください」と返されました。
ブロンプトンをつれていると、こう言われることは多いのです。
西の空は日が傾いてきていますが、季節柄なのかまだ日差しを保っています。
東の空はいま激しい雨を降らせた雲が去っていくところで、濃いグレーの雲が天空を覆っています。
ふとみると、東横線の車庫の向こうに、ほぼ完ぺきな半円の虹がかかっていました。
私はもっと虹をよく見たいと思い、普段は通らない丘陵の斜面に設けられた公園にブロンプトンを乗り入れ、えっちらおっちらとのぼってゆきました。
小学生の頃、虹の正体を確かめたくて、こんな風に坂道をのぼって見晴らしの良い場所へと急いでいた自分を思い出しながら。
虹は太陽光が、プリズムの役割をする降雨による雨滴にあたると屈折、反射しておきる気象現象のひとつであると小学生で習いました。
それが中学に入ると、虹は神さまと人間との間の契約の印であるということを本で読みました。
最初に聴いたときの印象は、誰もがそうであるように「荒唐無稽な話だな」でした。
そのあと、多少知恵がつくと「ホメーロスのような叙事詩みたいなものかな」という印象でした。
旧約聖書の最初、創世記の6章あたりから、有名な「ノアの箱舟」の話が登場します。
主は地上に悪がはびこり、人々が悪いことばかり心に思い計っているのを見て、人間を作ったことを後悔します。
そこで、自分が造った一切のもの一切を地上からぬぐいさろうと決心しました。
しかし、ノアにだけは家族ばかりでなく、地上の命あるものすべてを箱舟にのせて難を逃れなさいと啓示します。
大洪水のあと主はノアに次のように言うのです。
「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。
(旧約聖書 新共同訳9章9節~17節)
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聖書のこの箇所を読む際に着目せねばならないのは、主である神は人間がよくやるように、「あなたが良い子にしていたら」とか「あなたが私の言うことを素直に聞き入れるなら=私を信じるなら」など、この契約について人間の側に条件を付けていない点だといいます。
法的にいえば、神から人へむけた片務契約とでもいいましょうか。
ゆえに、何か天変地異が発生して犠牲者が出た際に「神のばちがあたった」などと言うのは、神さまの側からしてみれば「そんな契約した覚えないし」ということになります。
別にキリスト教の神さまでなくても、例えば仏教の菩薩さまたちはすべての人の、あらゆる悩みが救われるまで、大いなる慈悲のために誓って成仏しない(大悲不成仏)という存在ではないですか。
あれも、「すべての人」であって「仏を信じる善男善女」とか「仏法に背かない人」なんて条件をつけていませんし、菩薩さまたちの一方的な願いですから。
こうして虹を見ていると、「ああ、いま神さまはわたしたち肉なるものとの間に立てた契約を心に留めてくださっているのだ」と思います。
と同時に、昔の自分だったら虹なぞたとえ気が付いたとしても見向きもしなかっただろうと思うのです。
こうしてわたしが雨上がりの夕方に虹とブロンプトンの写真を撮っていること自体、「神の恩寵」「仏の大悲」なのかもしれません。
あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。
(旧約聖書 新共同訳9章9節~17節)
聖書のこの箇所を読む際に着目せねばならないのは、主である神は人間がよくやるように、「あなたが良い子にしていたら」とか「あなたが私の言うことを素直に聞き入れるなら=私を信じるなら」など、この契約について人間の側に条件を付けていない点だといいます。
法的にいえば、神から人へむけた片務契約とでもいいましょうか。
ゆえに、何か天変地異が発生して犠牲者が出た際に「神のばちがあたった」などと言うのは、神さまの側からしてみれば「そんな契約した覚えないし」ということになります。
別にキリスト教の神さまでなくても、例えば仏教の菩薩さまたちはすべての人の、あらゆる悩みが救われるまで、大いなる慈悲のために誓って成仏しない(大悲不成仏)という存在ではないですか。
あれも、「すべての人」であって「仏を信じる善男善女」とか「仏法に背かない人」なんて条件をつけていませんし、菩薩さまたちの一方的な願いですから。
こうして虹を見ていると、「ああ、いま神さまはわたしたち肉なるものとの間に立てた契約を心に留めてくださっているのだ」と思います。
と同時に、昔の自分だったら虹なぞたとえ気が付いたとしても見向きもしなかっただろうと思うのです。
こうしてわたしが雨上がりの夕方に虹とブロンプトンの写真を撮っていること自体、「神の恩寵」「仏の大悲」なのかもしれません。