名古屋市南区呼継(よびつぎ)にある清水稲荷神社の入口(35.105271,136.932402)から、旧東海道の旅を続けます。
神社の境内を進んでゆくと、つきあたりにお稲荷さんがあります。
ここはお隣、曹洞宗長楽寺(35.105479, 136.931914)の稲荷神を祀っています。
その長楽寺は西暦811年、弘法大師が巡礼で訪れた際に、夢のお告げによって呼続の浜に七堂伽藍を建て、荼枳尼天(だきにてん)を祀り、寛蔵寺という真言の道場を設けたのが始まりと伝えられています。
なるほど、お稲荷さんとお寺の西側は一段低くなって公園になっており、ここが西側を向いた浜であったことがわかります。
また、ここは昔今川と織田の国境だったそうで、お寺の境内の中には境のしるしがあるそうです。
(清水稲荷社入口)清水稲荷のお隣が富部神社(35.105240, 136.931530)です。
こちらは1603年と創建が比較的新しく、同じ愛知県津島市にある津島神社から勧進されて創建されました。
1606年には当時の清州城主松平忠吉が病気治癒を祈願したところ、快復のしるしがあったとして、その感謝に本殿以下拝殿などが建立されました。
松平忠吉(家康の四男)というと、1600年の関ヶ原の戦いで、島津の退き口に対して追撃戦を行い、その際に受けた鉄砲傷がもとで、1607年、28歳の若さで亡くなるのですが、祈願のタイミングが死亡の前年です。
忠吉が関ヶ原で受傷したのが20歳のとき。
彼は正統派の美男子で指導者としての器量も備えており、父家康のおぼえもめでたかったために、亡くなった際には兄の秀忠がたいそう惜しんだそうです。
(清水稲荷社本殿)
ちなみに関ヶ原で討取った島津豊久(享年30歳)も、薩摩では有名な美少年で、同じく智勇に優れていたそうです。
撤退戦に際して殿軍(しんがり)をつとめ、その際に行った捨て奸(すてがまり)という戦法は、後々語り草になりました。
今でも時々大河ドラマなどで描かれますが、追撃してくる大群に向かって小部隊で食い止め、全滅したらまた新たな小部隊を繰り出し…といういわばトカゲの尻尾切りのような残酷な戦いを繰り返すというものです。
そんな時代に生まれなかったことを感謝しましょう。
(冨部神社)旧東海道に戻ります。
清水稲荷神社の入口から道なりに300mゆくと、呼続小学校前交差点(35.108038, 136.932298)で、東海通を渡ります。
名古屋市内らしく、合計4車線のかなり広い通りで、交通量が多いせいか小学校わきの信号にもかかわらず、なかなか青になりません。
左手をみると下り坂になっていて、旧東海道が先に渡った天白川と、これから渡る山崎川の間にある尾根の上をすすんでいることがわかります。
ところで呼続(よびつぎ)とは変わった地名です。
「もうすぐ宮の渡しから船がでるぞぉ」とここまで伝言リレーのように旅人に呼び伝えられたという話がネット上にありますが、これは俗説のようです。
尾根の下が海になっていて呼続浜という名前で浜の続きがすぐ崖になっていたので「よ」=斜面「つぎ」=間でこの名前になったというのが正しいようです。
(呼続小学校前交差点)交差点から170m先の右側にあるのが湯浴地蔵(35.109210, 136.932789)です。
鎌倉時代に鋳造されたお地蔵さんに湯を浴びせて祈願したところからこの名前がついているそうです。
巣鴨の刺抜き地蔵や、各地にある身代わり地蔵もそうですが、こういう民間信仰ってわざわざお湯を用意するところがすごいと思います。
このあたり、温泉などないですから、そのために湯を沸かすわけでしょう。
今みたいにガス栓ひねればOKの時代ではありませんから。
同じように、お茶をたてるというのも、準備なども含めて相手を思いやる気持ちがなければ、なかなか余裕をもってできることではなかったのではないかと思います。
(湯浴地蔵)湯浴地蔵の前から旧東海道はくだりにかかるのですが、その前に左に折れてなおも尾根の上の道を240m進んでみましょう。
その先は三方崖になっているという突端に建つのが曹洞宗の白毫寺(びゃくごうじ35.116846,136.930051 )です。
お寺の山門前には年魚市潟景勝跡とあります。
「あゆちがた」と読みます。
勘の良い方ならこれが「愛知」の語源だとお気づきになるかもしれません。
そう、呼続浜という地名は鎌倉時代以降のお話で、その前は年魚市潟と呼ばれる入り江が広がっておりました。
あゆち潟汐干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖によるみゆ
と万葉集にも歌われております。
(白毫寺山門)旧東海道に戻り、坂を下ります。
鳴海宿の先で天白川を渡ってから、笠寺観音の手前でゆるいのぼりがあったきりですから、「こんなに高所をはしっていたのかな」と思うほどのだらだらとした下り坂をくだりきると、湯浴地蔵から670mほどで山崎川を山崎橋(35.114077, 136.928553)で渡ります。
渡る前に右折して川の左岸を上流方向へ行ってみましょう。
180m先で名鉄線の踏切を渡ります。
鉄橋の脇にある踏切で、人と電車の距離が近いなと感じます。
私は撮らないけれど、鉄道写真に良い場所ではないでしょうか。
家の近所だと、小田急線の登戸~和泉多摩川間の多摩川土手に、こういう素朴な踏切がむかしあって、テレビのコマーシャルなんかに出てきたのですが、いま小田急線は高架で複々線になり、跡形もなくなっています。
「コトン、コトン」と音をさせながら鉄橋を渡ってくる列車って、踏切から見ていると風情があるのです。
関東地方なら荒川にかかる川越線の鉄橋脇に、小さな踏切がありますよ。
(白毫寺本堂)踏切から70m先に師長小橋という人道橋があるので渡ります。
渡ったら正面の階段を、自転車を担いでおりて、川を背に北へ100mほど進みます。
20m先に見える信号のある交差点が、愛知県道221号線で地下鉄名城線が走っており、左に折れればすぐ妙音通駅の入口があるという具合です。
信号手前左側にある小さな神社が嶋川稲荷(35.116846, 136.930051)といって「藤原師長公謫居(たっきょ)跡」の看板が立っています。
(湯谷地蔵からの下り坂)
藤原師長は、平安時代末期の太政大臣で、保元の乱で敗死した藤原頼長の息子です。
その出自から平家との折り合いが悪く、一度土佐に流されて京に戻り太政大臣までのぼりつめるも、平清盛のクーデターにあって解職され、ふたたび尾張の国のこの地へ流配されました。
(近くにあったお風呂屋さん。ファサートがちょっとモダンです)師長自身は学問があって歌人でもあり、特に笙や琵琶の名手で雅楽の世界では有名な音楽家でもありました。
流罪になったことを少しも気に病むことなく、江州に流された白楽天に自身をなぞらえて悠々とした生活を送っていたそうです。
あるとき、熱田神宮で彼が笙や琵琶を演奏すると、素養のない近所の子どもや老農夫までもが集まってきて、じっと頭を垂れてその音色に聴き入ったといいます。
だんだんと夜が更けて「これまではチャラチャラした世俗の歌ばかり歌ってきたけれど、これからは仏法を讃える手段として音楽を奏でたい」と演奏しながら彼が吟じると、神殿までもが鳴動したため、集まった人たちは「平家の世でなければこんな場面に出くわすこともなかった」と、皆感動したそうです。
彼の非凡さが出ていて、このあたり当世のロック歌手やアイドルとは全然違うのでした。
(中島橋)三年の後、平家が滅んで鎌倉幕府が開かれると、彼は都へ呼び戻されることになりました。
この地で世話をしてきた長者の娘に、守り本尊と愛用の琵琶を形見として渡して別れを告げるのですが、途中まで見送りに出た娘は別れの辛さのあまりに川に身を投げて還らぬ人となりました。
その場所が、美濃路の枇杷島ということです。
久々に登場しましたね。
長者の娘の恋煩いによる自殺のお話が。
都の貴人と土地の娘って、定型パターンのお話に見えてきました。
しかし、それほどに彼にカリスマ性があったということなのでしょう。
今でも時折いますよね、有名な歌手がお亡くなりになると後追い自殺するファンが。
私は「ふーん、師長って東海道じゃなくて美濃路から中山道を通って都へ帰ったんだ、新幹線と同じルートね」などとどうでもよいことを考えているのでした。
(師長小橋)さて旧東海道の中島橋(35.114172, 136.928404)まで戻りましょう。
川向こうが瑞穂区になります。
橋を渡ったら突き当たるので、左折します。
200m進むと道が広くなり、右手に大きな工場が現れます。
ブラザー瑞穂工場です(35.114172, 136.928404)。
門の前にサインが出ているのですぐに分かります。
本社は旧東海道から見て工場の裏手すぐ場所にあります。
私の世代だと「ブラザー、ブラザー…」って企業名を連呼する一社スポンサーの番組を思い浮かべてしまいます。
昔のテレビ番組で、「刑事犬カール」「コメットさん」「人生ゲーム・ハイ&ロー」など懐かしいタイトルが目白押しです。
(嶋川稲荷)「朝陽を追って、旅立つ君はなぜ、石ころの道えらぶの…」って主題歌、今でも覚えています。
東海道を歩くこと自体、新幹線や飛行機のご時世に、なんで石ころの道えらぶの?ですから。
ちなみに刑事犬カールじゃないですが、主人を庇って片前足を失ってしまったシェパードの盲導犬、サーブ号のお墓が冒頭に出てきた長楽寺にあります。
渋谷のハチ公ほど有名ではありませんが、時の総理大臣から表彰され、栄の久屋大通公園には銅像があります。
そのうちハリウッドが映画化したりして。
(中島橋を渡ったら左折します)ブラザー工業株式会社のイメージは、テレビの記憶にあわせて、自分の頭の中ではミシンとタイプライターですが、今はプリンターやファクシミリ複合機でよく見かけます。
タイプライターって懐かしいです。
数学の基礎にはそろばん、英語の基礎にはタイプライターなんて思って、よく中学生のころに家にあったタイプライターを打っていました。
そのころ、マイテープ(自分の好きな曲を入れたカセットテープのこと)の背は、レタリングシートを使って(鉛筆の柄でこすった記憶があります)タイトルを入れるのが主流でしたが、私はタイプライターを使っていました。
その方が文字もたくさん入るのです。
(派手さが無い分、かくれた優良企業だったりして)また、意外なのですが銀行のキャッシュ・ディスペンサーもシェアは3割あり、ラベルプリンターはこの会社の発明で世界シェア1位なのだそうです。
あれ、「テプラ」じゃないの?と思ったら、テプラはブラザーのOEMなのだそうです。
考えてみればタイプライターだってブラザーはイタリアのオリベッティなんてものともしていませんでしたから、国内よりも海外で評価されているのは今も昔も変わらないようです。
(高速道路下が松田橋交差点です。)ブラザー瑞穂工場の正門前から190mの松田橋交差点(35.115105, 136.921941)で旧東海道は国道1号線に合流します。
上には名古屋高速大高線の走るこの大きな交差点から、次回は続けたいと思います。
旧東海道ルート図(知立駅入口~金山駅入口)http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=451c126d388a124117f3f8b94d995a6f&mode=silve