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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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最近ネット上でよく見かける、少し気になる日本語

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(あるとき、井の頭通りをブロンプトンで走っていると、見慣れぬ尖塔が目に入ってきました。=今日は本文と写真は関係ありません)

以下のような表現を、さいきんニュースをはじめネット上の記事で見かける機会が増えた気がします。
 
「持論を展開した」「持論を主張した」「持論を語った」
「自論を展開した」「自論を主張した」「自論を語った」
 
さて持論と自論では、どちらが正しいのでしょう。
広辞苑にはじろん=「持論」=その人が常に展開している意見・議論・自説とあります。
おそらく「持論」の方が正しくて、自分の「自」の字を使うのなら、「自論」よりは「自説」の方が適当なのでしょう。
「自説を展開した」「自説を主張した」「自説を語った」のように。
もう少しだけやわらかい言い方に「(個人的)見解を披露した」というのもあります。
でも、こうした表現を報道という文脈で使うとき、「持論」や「自説」という言葉は「自分勝手な、ひとりよがりな意見や議論、主張」というニュアンスで使用されている気がします。
書いている人自体が、どこか上から目線なものの見方をしているようにみえるのです。
(そういう人には、「では公論とは何ぞや」と問いかけたくなります)
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(あれが東京ジャーミィ=トルコ文化センターですか。ホームページを見ると、海外のイスラム寺院同様呼びかけも行っているようですので、運が良ければあの独特の節回しをきけるかもしれません)
 
むかしは個人が情報を発信したくても、手段がなかったからできなせんでした。
このブログもそうですが、今は個人が簡単にネット上で気軽に「持論を展開」できるようになりました。
テレビでもおそらくは発言力の大きな人がバラエティ番組などで、世事に対して「持論を語って」いるのでしょう。
でも、皆が自分の意見を語れるぶん、持論を主張する人の数に対して、黙って聞いてくれる人の方が圧倒的に少なくなっているのではないでしょうか。
そして、どんな立場の人のどんな内容の意見であっても、個人で語る分には「持論」になりますが、それがユニークな自説ではありません。
私だって普段話している内容のほとんどは、本の受け売りとまではいわなくても、読んで比較したり推論したりして得た感想ですから。
ニュース記事にこうした表現を含める人は、現状に嫉妬というか焦りをおぼえているのではないかと勘ぐりたくなります。
日本語としてどうかと問われれば、「持論云々」はあさましい表現だと思います。
もっと自分と違う意見にも謙虚に耳を傾けることはできないものでしょうか。
少なくとも、ニュース記事を発信する人が、誰かが語ったことを小ばかにして紹介するような、そういう物言いは、けっきょくは媒体を貶めることになるのでよくないなと、そんなことを考えていました。
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(入口まで寄ったら、スペイン・コルドバのメスキータを思い出しました)

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