大倉山駅の駅前委由来は、駅の西側にある山の名前からきています。
大倉山は、もとは観音山と呼ばれていたのですが、昭和7年(1932年)に山の頂上に東洋大学の学長でもあった大倉邦彦が、大倉精神文化研究所をつくったところから、名前が変わりました。
現在は市に売却され、横浜市大倉山記念館となっているもと研究所の建物は、ギリシャのヘレニズム様式のような建物で、今のように東横線沿線に建物が密集する前は、特に綱島側の車窓から山の上にポツンと建っている様子が印象的でした。
町名は長らく「太尾町」で、駅名も「太尾」でしたが、研究所の建設と同時に駅名が「大倉山」に、町名はずっとあとの2007年から2009年にかけて「大倉山」に改められました。
さて、この大倉山ですが、駅から記念館を目指して直行すると、かなりの急登になります。
そこで、東京テレインマップを使用して、よく観察してみましょう。
大倉山は鶴見川の右岸に位置するため、海側の浦島ヶ丘やもっと南西にあたる片倉町のほうから回り込んで伸びてくる尾根の先端ということがわかります。
これは今まで東横線沿線を走ってきて越えてきた幾多の尾根が、単純に北西から南東へとのびる尾根だったのに対して、南東から北西へと逆にのびている尾根となっていて、鶴見川が大きく北向きに蛇行しているのとあわせて、周囲の中でも際立って珍しい地形になっています。
そして、この山に自転車で上るには南西にある細長い谷をのぼるのがいちばんゆるい坂だということがわかります
ともあれ、前回は大倉山駅の東側を主にご案内しましたので、今回は逆の西側へ行ってみましょう。
改札を背に商店街を右方向へゆきます。
ここは大倉山エルム通り商店街といい、中学校への道(35.522692,139.626615)から先の西側をオリーブ通り商店街といいます。
改札を出て左手側が、レモンロード商店街といいます。
エルム通商店街は、それぞれのビルや商店が2mほどセットバックして、ファサート部分を記念館と同じ、プレヘレニズム様式に統一しました。
走ってみると、全体的に白が基調の建物が続き、明るくてどことなくギリシャ風に感じられるかもしれません。
エルム通、オリーブ通商店街を抜けて、駅から1㎞西へ行くと太尾堤交差点(35.527301, 139.621312)に出ます。
大倉山公園に登るには、ここを右折して牢尻緑地と棒田谷緑地の間の谷間を入ってゆくのですが、まずは直進しましょう。
太尾堤交差点から250mさきの新羽橋東交差点(35.528742, 139.618930)で綱島方面からの道とぶつかり左折し、新羽橋(35.528550, 139.617267)を渡って630m西へ行くと、横浜市営地下鉄の新羽駅(35.527453, 139.611981)下を通ります。
地下鉄なのに駅下を道路が通るのは、市営地下鉄ブルーラインが高架区間を走っているからです。
地図を見るとわかりますが、ここから横浜まで東急東横線と市営地下鉄ブルーラインは、一定の距離を保ったままほぼ並行して南下して横浜駅へと至ります。
ですから、東横線の反町~菊名間の住人でブロンプトンを持っている方がいたら、大倉山から新羽まで自転車で走って、港北ニュータウン、あざみ野方面へ電車を乗り継げば、いちいち横浜まで戻らなくても済みます。
ブルーラインは伸延計画がありますので、小田急線の新百合ヶ丘まで通じたら、多摩ニュータウンや橋本方面への近道になるのですが、いつのことになるのやら。
なお、新羽駅は車庫のある駅でもあるので、始発をねらえそうですが、それほど本数はありません。
新羽駅を通り過ぎて230mゆくと新羽十字路交差点(35.527898, 139.609331)です。
ここを右折すると綱島駅方面へと戻り、左折すると新横浜の北にある日産スタジアムに突き当たります。
新羽十字路から170mさき、左手に有名なガーデニングの大型販売店がある右手にあるのが、真言宗の西方寺(35.527461, 139.606960)です。
このお寺、江戸時代のものながら、山門も本堂も鐘楼も今どき珍しい茅葺屋根です。
横浜七福神の恵比寿様でもあり、花の寺として有名でちょっとした桜の名所になっています。
これで日吉の興禅寺(福禄寿)、日吉から綱島にかけての金蔵寺(寿老人)、綱島の東照寺(布袋尊)と合わせて七福神のうち四つまでを巡りました。
なお、ご本尊は今から1,000年前、平安後期の阿弥陀如来像です。
さて、今来た道を戻って新羽橋を渡り返して新羽橋東交差点を直進し、突き当りの信号(35.530080,139.621208)までゆきましょう。
信号を渡ってから右折して100m先の路地(35.529163, 139.621573)を左折し、牢尻緑地(35.529984,139.622742)と棒田谷緑地(35.527958, 139.622570)の間の谷を入ってゆきます。
そのまま谷筋の道を進むと左側に現れるのが、曹洞宗の龍松院(35.526753,139.625531)というお寺です。
小机城主の笠原氏が開基で、安土桃山時代に創建されています。
ここが大倉山公園の駅とは反対側、西の入口になります。
そこから道は左に梅林を見ながら坂をのぼってゆきます。
この梅林は東急が東横線開通後に買収した土地に、乗客誘致のために昭和6年に開設したといいます。
戦前の東横線の沿線案内図をみると、ここに梅林がちゃんと示されていて、大倉山の北側には田んぼを利用したスケートリンクが冬季の間だけ設けられていました。
綱島温泉といい、大倉山といい、開通当時の東横線は乗客誘致に必死だったようです。
沿線に家やマンションを購入して住むことが憧れになっている現在とは、隔世の感があります。
梅園が切れたところ(35.525714, 139.627451)で左折して、山から下りる階段のところまでいったら再び左折し、細い山道へ入ってみましょう。
梅園の北斜面上には、東横神社(35.526919, 139.626904)があります。
ご祭神は天照大神で合祀されているのが渋沢栄一、五島慶太のご両名。
つまり、東急電鉄の創業者なわけです。
この神社は東急電鉄の所有で、一般公開はされていません。
しかし、裏側の路地からなら樹木の隙間から様子をうかがうことができます。
みると、銅像が並んでおりました。
ちなみに、目蒲神社とか田園都市神社はもちろん、小田急神社とか京王神社は存在しませんが、鉄道神社なるものはJR各社の社屋や敷地に存在するそうですよ。
うーん、この企業の神社ですが現在はどんな位置づけなのでしょう。
まさか新入社員は揃って参拝とか、今はやっていないと思うのですが。
さて梅林の縁まで戻ってさらに大倉山の頂上目指して登ってゆきましょう。
150mさきの右手、大倉山の頂上にあるのが横浜市大倉山記念館(35.524588, 139.627955元大倉山精神文化研究所)です。
1932年の建設で、設計は東京駅を設計した辰野金吾のお弟子である長野宇平治(1867-1937)です。
古典主義建築の第一人者だった長野氏は、ほかに日本銀行本館、大阪支店、旧北海道銀行本店などを設計しています。
この建物、昔は東横線の車窓から上の塔の部分だけが見えていました。
上の部分だけ見ると国会議事堂とよく似て見えました。
まわりに家が建て込んでいない分、かなり遠くからも見えていて、子ども心にちょっと怖かったと記憶しています。
記念館を通り過ぎてそのまま坂を下ってゆけば、まもなくホームが見えてきて、下りきったところが大倉山駅改札脇になります。
次回は大倉山駅から菊名駅へと向かいます。